Poem & Essay

演奏会後記No.2
琵琶・弾き語りの魅力(2000年11月18日/水香園・四季亭)
青梅線の川井駅から青梅街道を奥多摩方面に歩いて約五分、多摩川の壁岸を少し降 ったところに水香園四季亭はある。
前日はどしゃ降りの雨だったと聞くが、当日は穏やかな秋晴れとなった。
門の辺りに来ると、見事に紅葉したもみじの大樹が眼の奥に鮮やかに拡がる。
心まで焼かれるような緋の光である。
更にそこを抜けて急な坂を降り、渓流の水音が沸き立つあたりが四季亭である。
中にはいると、舞台は大きなガラスを全面に背する。対岸の紅葉した樹林が借景と
なり、まるで一双の日本画の屏風のようであった。
じっとその屏風に視入る。
空間は湿潤な空気に満たされて幽かに霞んでいる。そして邃(ふか)く遠い。
厚いガラス越しであるから何も音がしない。その無音の風景に、散るはずもない落
葉がときよりひらひらと舞い散る。これは絵画ではないと気づく。その動きに静寂は いっそう際だって、万古の感慨がよぎる。
沈黙は永遠の時間を孕んでいるのだ。
永遠に流れゆくものの揺るぎない姿、それが沈黙なのであろうか。その沈黙が音の 住処(すみか)である。
この沈黙の前に私は何と無力であろうか。私が今日ここで音声を発することの意味 は一体何であろうか。
今日の演奏会はこの風景がすべてではないだろうか。
この風景は演出としての自然ではない。「素(そ)」である。素(しろ)き姿であ
る。この素き姿に由りて私は沈黙に通じることが能う。沈黙を拠り所として初めて、
韻(ひびき)が闡(ひら)かれる。音は音霊(おとだま)となる。力となる。これが
今日、この場所で演奏することの意味に違いない。
音は沈黙より訪れ、沈黙に還ってゆくであろう。それは何事も無かったかのように
。ただそれは心の中に音の風紋として永遠に刻まれる。おそろしいことである。これ が音楽家の責任の所以である。
しかし、有り難いことに、主催者の無欲の心意気が風景の「素」を会場の中に引き
寄せ、満たし、素の佇まいとなって浄めている。四季亭は、秋の一日(いちじつ)、 実に「澄心(ちょうしん)亭」であった。
その清々しさに私は助けられた。
ありがとうございました。
(2000.11.20/中村鶴城)