Poem & Essay


人生の転機━日月の韻コンサート


 1995年12月2日、私の生まれ故郷である宮崎の宮崎県立芸術劇場コンサートホールにて、「琵琶と尺八/日月の韻(ひつきのひびき)」と題するコンサートが開かれました。会場は正面にパイプオルガンのある1800人以上も入るクラシック大ホールです。その一階席(800席)だけを使った贅沢な会でした。琵琶は私、中村鶴城、尺八は横山勝也氏です。横山氏は云うまでもなく現代最高の尺八演奏家、音楽家です。私の師匠の鶴田錦史先生とは30年近くに渡ってペアーを組まれ、武満徹作品のスペシャリストとして、世界的に活躍してこられた方です。
 この贅沢な会は実行委員の献身的なご努力により、また大勢のお客さん(約700人)の熱気に支えられて無事成功いたしました。このライブ録音テープから琵琶が関係する曲目だけを収めたのがこのCDです。
 このコンサートに先立つ、同年9月8日、私は初めてのリサイタルを東京の紀尾井小ホールで開きました。このときのプログラムの一つとして、武満徹作曲の《エクリプス》を選びました。私にとって《エクリプス》は《ノヴェンバー・ステップス》とともに、琵琶を習い始めた二十歳の頃からの青春時代の遙かな憧れ、そして夢でした。そして、いつの頃からか、初めてのリサイタルの時にはこの曲を演奏しよう、そして、そのときには尺八は必ず横山勝也氏にと密かに(大胆にも)決めていました。私には《エクリプス》の曲と横山氏の尺八の音が、どうしても切り離せなかったのです。それに何よりも、最高の演奏家と同じ創造の空間を共有させていただくことで、自分自身を鍛えられると思ったからです。横山氏は無名の私との共演を快く引き受けて下さいました。こうして、初めてのリサイタルで、初めて《エクリプス》を演奏し、初めて横山勝也氏と共演させていただくことになりました。
 そのおよそ三ヶ月後、日月の韻コンサートは開かれました。これには不思議なエピソードがあります。このコンサートは初め同じ劇場内のイベントホール(300人収容)で開かれる予定でした。ところが実行委員の方が12月2日に予約しておいたはずが、間近になって、何の手違いか2日が1日になっていることに気がついたのです。1日では横山氏の仕事の都合がつきません。2日はすでに別の催し物の予約が入っています。これでイベントホールでのコンサートは駄目になりました。しかし不思議なことに、念のため何となくコンサートホールを予約していたというのです。そしてこちらの方は予定通り12月2日となっていました。それにしてもイベントホールは300人、コンサートホールは1800人です。普通こんな「念のため」があるでしょうか。
 ほんとに不思議で変な話です。しかし、このお陰で、うれしいことに今後も二度とないであろう1800人の大コンサートホールでの、邦楽二人だけの演奏会を開くことができたのです。広い響きのよい空間で、大勢の聴衆に囲まれて演奏するというのは、本当に演奏家冥利に尽きることです。
 私はこれはきっと、「朝嵐(あさあらし)」が企んだことではないかと密かに思っています。「朝嵐」とは、恩師鶴田錦史先生が長年愛用してきた琵琶の名器の銘です。師はこの年の4月に亡くなられました。その3年前の1992年のある日、私は師から「あなたにこの琵琶をやるよ、この琵琶だけは誰にでも譲るわけにはゆかない、あなたなら生かしてくれると思うから」と突然「朝嵐」を渡されました。実はそのある日とは、12月2日のことです。偶然にも、3年後の「日月の韻コンサート」が開かれたのと同じ月日でした。これは演奏会の後になって気づいたことです。世界中のオーケストラと30年近くに渡って《ノヴェンバー・ステップス》を演奏してきた「朝嵐」のことです、大きな響きのよいクラシックホールが好きに違いありません。「朝嵐」の歴史がクラシックホールの空気を求めたのです。そして勿論その黒幕は天国の鶴田先生でしょう。(師は1993年10月24日病に倒れ、2年半後の1995年4月4日この世を去りました。)
 「日月の韻コンサート」は、私にとって演奏家としての人生の重要な転機となりました。
 横山勝也氏は、共演を通じて私を武満作品のソリストとして認めて下さり、その後の《エクリプス》や《ノヴェンバー・ステップス》の演奏相手として声を掛けて下さるようになりました。しかも、コンサートの直後すぐに、私を武満徹氏に推薦して下さったのです。こうして光栄にも武満徹氏に「日月の韻コンサート」の録音テープを聴いていただくことになりました。
 その年の暮れ、一通の葉書が届きました。武満徹氏からでした。
 丁度そのとき、日本コロムビアレコードでは、まだ録音されていない武満徹作品を収録しCD化する計画をディレクターの川口義晴氏が進めていました。その曲の中に、《ノヴェンバー・ステップス》の陰に隠れてしまっていた名曲《秋》(オーケストラと琵琶、尺八のための作品)がありました。武満徹氏は「日月の韻コンサート」の録音を聴いて、その琵琶のソリストとして私を撰んで下さったのです。その依頼の葉書でした。
 しかし、翌96年2月、武満氏はCDの完成を見ることなく他界されました。録音は7月に行われ無事成功しましたが、武満氏に直接お会いし、琵琶を聴いていただけなかったのがとても残念でなりません。
 これに先立つ6月、横山氏の推薦により、パシフィック・ミュージック・フェスティバルに於いて指揮者のクリストフ・エッシェンバッハから《ノヴェンバー・ステップス》のソリストとして迎えられ、私にとって生まれて初めてオーケストラと共演することになりました。そしてその後、これを契機にたびたび国内オーケストラの定期演奏会に招いていただくようになりました。
 有り難い縁はさらに続きました。
 同年9月1日、サイトウキネン・フェスティバルにおいて、武満徹氏の追悼コンサートが開かれました。これは、小澤征爾氏が、武満氏にゆかりのあった演奏家に呼びかけて実現したものです。このコンサートに私は《エクリプス》で横山勝也とともに出演する機会を与えられました。小澤征爾氏は、この演奏を客席で聴いておられ、演奏会終了後、舞台袖にいた横山氏に歩み寄って「これでまたノヴェンバーがやれるね!」とうれしそうに声を掛けられました。そして私に拍手をして下さったのです。鶴田先生亡き後、小澤征爾氏はノヴェンバーの演奏を断念しておられたようですが、再びノヴェンバーがレパートリーに加えられることになりました。
 小澤氏の指揮でノヴェンバーをという夢はすぐに訪れます。
 1998年2月、長野冬季オリンピックが開催されましたが、その音楽総監督を務めた小澤征爾氏は、皇太子御夫妻をお迎えしたIOC総会オープニングセレモニーにおいて、日本文化を代表する音楽として《ノヴェンバー・ステップス》の演奏をプログラムに入れることを決定しました。そして琵琶のソリストとして、私を招いて下さったのです。さらに、その年の8月にはアメリカのタングルウッド音楽祭において、急遽《ノヴェンバー・ステップス》をプログラムに加え、再び演奏する機会を与えて下さいました。
 このように「日月の韻コンサート」のコンサートが機縁となって横山勝也氏に認めていただき、さらにそのライブ録音テープが武満徹氏に私を引き合わせ、さらには小澤征爾氏に導いてくれたのです。一介の邦楽演奏家にとって、想像もしていなかったクラシック音楽界での演奏の場、しかもオーケストラと共演という有り難い経験を頂くことができました。
 これらの経験は私にとって何にも代え難いものとなりました。私は小澤征爾氏、武満徹氏、鶴田錦史先生、横山勝也氏を「ノヴェンバー・ステップスの四人の同志」と呼んでいます。同じ時代を戦ってきた勇者たちです。今、私たちはそのうちの二人を喪いました。しかし私は残されたお二人との共演を通じて、楽譜からだけでは決して学ぶことのできない、ノヴェンバーの霊気のようなものに触れることができたような気がします。幸なことです。なぜなら、その霊気こそノヴェンバーをノヴェンバーたらしめている力であり秘密だと思うからです。私を世に送り出して下さった横山勝也氏に心より感謝申し上げます。
 またこのコンサートを企画して下さった実行委員の皆様に心よりお礼申し上げます。
 このコンサートは私の人生の転機であり、このCDは私の人生の宝です。
(CD「コンサート・ライブ'95琵琶●日月の韻 中村鶴城」ブックレットより)