Poem & Essay


悲劇の「悲」は慈悲の「悲」

 およそ、どういう仕事であれ、自らの為すことの意味を自らに問うてゆくことは、道を深めるためにも、また道を外さないためにも必要なことだと思います。私が琵琶語りについて長年問うてきたことのひとつは、「悲劇とは何か」ということでした。周知のように、琵琶の曲の多くは悲劇であるからです。この問いのまえに「そもそも琵琶語りは、なぜ悲劇なのか」という問いがあるのですが、少なくとも古典を引き継ぐかぎり悲劇を語りつづけることは避けて通れません。
悲劇とは一体何でありましょうか。どうして人は悲劇を語り、演じるのでしょうか。またなぜ、足を運んでまで悲劇を求めるのでしょうか。
問題は悲劇の「悲」です。最近、悲劇の「悲」とは、「悲痛」「悲壮」の「悲」ではなく、「慈悲」の「悲」のことではないかと思うようになりました。
仏教辞典で「慈悲」という言葉を調べてみますと、サンスクリット語で「慈」の原意は、人生の苦しみに呻き声を上げるその呻き声のこと。「悲」は、その苦しみに相手と同じ視線に立って共感し、同じ痛みを感じる思いやりの心であり、さらにその苦悩を取り除く「抜苦(ばっく)」を意味するのだそうです。つまり「悲」とは、人の悲しみを我が悲しみと感じる思いやりの心であり、その思いやりで苦しみを和らげ取り除くということです。
「悲」とは、悲しいという想いではなく、思いやりの心でもって苦しみを取り除く「抜苦」である。このことを考えているうちに、ああ、これが悲劇の役割だなと思いました。悲劇は、人間の心に自然に備わっている、この「悲」なる心の働きがあるからこそ成り立っているのではないでしょうか。悲劇とは、「悲壮、悲痛なる劇」ではなく、「慈悲の悲なる劇」ということです。
ここで、この「悲」なる心の働きを、仮に「悲の作用」と名づけましょう。
当たり前のことですが、仮に題材そのものは過去の事実であったとしても、舞台で演じられる悲劇はもはや現実そのものではありません。人は悲しいと感じつつも、それがいま現実に起こっている事ではないことを知っています。ですから、安心して、自らの悲劇的体験(死・苦悩・破滅・不幸・悲しみ・敗北など)をその悲劇の登場人物に重ねて、自分の心の奥に潜んでいるつらい想いを、涙とともに意識の表面に吐き出します。
 しかし、このとき人は本当に心底から悲しんでいるのではありません。その悲しみは、日常的な生活のなかの感情想念とは少し異なります。もし悲劇の演奏を聴いて、そのたびに現実と同じように本当に悲しむとしたら、それは精神的にも、肉体的にも大変苦しいことですから、わざわざ足を運んでまで聴きにいくはずがありません。人が悲劇を求めるのは、そこに何らかの癒しがあるからです。自分でも気づいていない、心の傷やつらい想いをしょうか昇華してくれるカタルシスがあるからです。いったん表面に現れた想いは、それに囚われ執着しないかぎり消えてゆきます。「現れれば消え去る」のであります。想いは「消えてゆく姿」として現れるのです。
 悲劇語りの意味と役割は、この「悲の作用」によって、悲劇的体験によって鬱積した人間の情念の世界、業想念の世界の悲しく辛い否定的想いをいずこへか解き放ち、心の重荷を取り去ることにあると思うのです。積もり積もった否定的想いを消し去り、ふたたび生命(いのち)の輝きを取り戻し、生命を躍動させることができるのは、私たちの心に「悲の作用」があるからではないでしょうか。
 ですから「悲の作用」によって成り立っている悲劇は、表面上は、悲痛、悲壮なるものでありながら、それがそのまま、慈悲の悲なるものとして救いとなっているのです。「悲」という、人を思いやる愛の心が、悲劇の登場人物の意識(心)を癒すと同時に、自分自身も救うのであります。だから悲劇の「悲」は、慈悲の「悲」なのであります。「悲」の働きは、神の慈悲なのであります。
 この「悲の作用」を導くためには、演奏者の意識が大変重要であると思います。演奏者は、悲しみを語って悲しみのうちに在ってはなりません。悲しみのうちに在ると見えて、悲しみを越えた絶対無情(非情ではありません)とでもいうべき世界に在らねばなりません。舞台で悲劇を語っているとき、演奏している私とは別に、非常に醒めた意識が自分を見つめていると感じます。その醒めた意識が、絶対無情でありましょうか。
 演奏者が、舞台に日常性を持ち込んではならない理由がここにあります。無心であることの大切さがここにあります。演奏者の意識が日常的感情想念(生活感情)の中にあったり、強い自我(自己主張)の意識がありますと、絶対無情なる虚空への道のようなものが断たれると感じます。その結果、カタルシスとして虚空に祓(はら)われるべき想念は、祓われるどころか、更なる想念としてそのまま、日常空間に累積されるのです。「消えてゆく姿」として現れたはずの想いが、消えてゆけないのです。
 悲劇は人間の否定的想いが、長い歴史の中で幾重にも幾重にも塗り重ねられてきたものです。だからこそ、その想いを更に塗り重ねてゆくのではなく、絶対無情なる虚空に解き放たねばなりません。そのための悲劇語りなのです。
 琵琶の語りは、語りの言葉が言霊(ことだま)となって深層意識にある否定的想いに深くゆきわたり、それを表面に引き出します。そして琵琶の音のひと撥(ばち)ひと撥が音霊(おとだま)となってその想いを虚空に「撥(はら)う」のです。琵琶の撥(ばち)は「撥(はら)い祓(はら)う」ものであります。禊(みそ)ぎ祓いの撥(ばち)であります。
 このように、琵琶の悲劇語りをひとつの大いなる働きと捉えることで、私の語り部としての生き方、心構えが、自ずと明確に定まってきました。そして、それと同時に、新しい琵琶語りの世界が、おぼろげながら立ち顕れてきたと感じます。悲劇の「悲」を慈悲の「悲」と得心することによって、悲劇語りを越えてゆくことができると確信したのであります。
(2001.8.20/中村鶴城)
*この文章は、来る11月15日の「中村鶴城 琵琶リサイタル」パンフレットに掲載予定の文章から抜粋し、表題を変えて一部、加筆したものです。