Poem & Essay


型が生きるということ


 琵琶の古典である「弾き語り」は型の音楽です。語りも弾法もひとつひとつ型があって、おおざっぱに言えば、その組み合わせで一曲が成り立っているといえます。弾き語りを学ぶことは、この型の様式を身につけることです。型はひとつひとつ基本として学びますが、しかし、決して絶対的なものではありません。曲想や詞章の内容に応じて変化したり、演奏のたびごとに即興に委ねられたりする部分もあり、結果として同じ型でも何種類にもなったり、細かいところで異なることが多いのです。しかしながら、この諸相の中には変わらざる様式があり、それが型の本質的な部分であり、真に学ぶべきはこの部分です。ところが、これははっきりとした形として眼や耳で確かめることが困難です。ただ心の中にのみ視え、心の中にのみ聴える直観的な部分ですので簡単には修得できないのです。
 表面的な型だけをなぞって型を修めたと思っていると、そのうちに型が崩れて独りよがりの弾き語りになってしまいます。弾き語りは文字通り一人で演奏することがほとんどですから、ついつい自分に甘くなり、型から外れても、勝手にやっても誰も文句を言わないのです。しかし型の様式を十分身につけた人は、自分の欲する通り弾き語っても、型を踏み外さず、型が崩れそうで崩れず、また型を崩したと見えて美的均衡はしっかりと保たれて味になる、「ああ巧い」と思わせるのです。この美的な感覚を失わないということが非常に大切であり、また難しくもあるのです。私の師匠、鶴田錦史先生がまさにそういうことのできる真の名人でした。
 何年か前、書店で黒住教の教祖、黒住宗忠(1780〜1850)の教えを纏めた『生命のおしえ』(東洋文庫)という本が目にとまり題名に惹かれて買い求めました。その付記に「道のことわり」というすばらしい言葉があります。その一節に「心は主人なり、形は家来なり。悟れば心が身を使ひ、迷えば身が心を使ふ」とあり、型の問題について考えていたとき、この一節をふっと想い出して「ああ、これは型の極意だな」と感じました。つまりこれを言い換えると「心は主人なり、型は家来なり。極むれば心が型を使ひ、到らざれば型が心を使ふ。」となります。
 型はそれを表面的な形として捉えているうちは駄目です。もちろん型は原理であり力ですから、ある程度、型通りにできれば、それなりのものになるでしょう。それは制服をきちっと着ていると、それらしくみえるようなものです。しかし型通りといってもそのやり方が問題なのです。単に表面的に型をなぞった所謂紋切型では、型は生きてきません。心が型の主人となっていないからです。型をなぞることに心が奪われているからです。こういうふうに語ろうとか、こういうふうに弾こうとか、そうした自分の意識が働いているのです。意識が働いている中は心は型の外です。逆に心が型の外にあるから意識が働くというべきでしょうか。意識があるうちはどうしてもつまらぬ欲が出てしまいます。欲があると型の本当の力を十分発揮できません。型通りやってそれが生きてくる為には、心が型の外にあってはならない、型の中になければならないのだと思います。型の中にあって初めて心は型に囚われなくなるのです。心と型が一つになるのです。一つとなったとき型は在って無きものの如く、在るのはただ心のみ。その心を自在心、無欲の心、無心というのでしょうか。しかし、これは言葉で言うほど簡単なことではありません。舞台のたびに自分の欲と闘い、無心とはほど遠い姿を思い知らされるばかりです。
 私たちが日頃練習するのは、型の中にあって型を忘れる程の無心の境地を得るためというべきでしょう。舞台で練習通りやれたというのでは、まだ型に囚われている証拠です。それは別の言い方をすればインスピレーションが無かったということです。インスピレーションがないということは何も創造されなかったということです。そうした演奏ほどつまらないものはありません。舞台は創造の空間であって、練習の成果をお披露目する場所ではありません。もちろん練習通りやれるというのは、それはそれで大した事なのですが、その先に行かないことには芸術というものの本当の深い味わいに到達できないのだと思います。
 芸術には高い技術が欠かせませんが、その技術に生命(いのち)を与えるのはインスピレーションです。創造するのは演奏家や芸術家としての自己ではありません。インスピレーションが創造の源泉なのです。自己は単なる触媒、媒体でしかありません。神の器です。少なくとも私はそうなりたいと強く願っています。その器になるために無心でなければならないのです。そして、無心になるということは祈るということではないかと思います。肉体人間としての自分が、如何に無力な存在であるかを知ったとき、謙虚な素直な気持ちで「神様、どうぞよろしくお願いいたします」と心が叫ぶ、その想いが祈りとなるような気がします。そうした祈りは自我我欲の中にあってできるものではありません。神様に全てをお任せするということですから、無欲無心になれるのです。その時、無力と悟らされたはずの自分の奥深いところから、人間本来の神性が輝き出して来るような気がします。その神性の輝きとは、自己表現などという安っぽい言葉とは全く無縁の世界です。こうしたことを、最近ひとつの演奏の体験を通じて強く確信しました。
 インスピレーションは二度と同じものはありません。「これは上手くいったな」と思う演奏も「もう一度同じようにやってみよう」と思った途端、インスピレーションはスルリと逃げてゆきます。心が不自由になったからです。欲が出たからです。一度行ったことを握りしめては駄目なのです。舞台は常に一回性の真剣勝負です。
 ですから型の問題に戻ると、二度と同じもののない絶対の「間(ま)」の中に生きてこそ型も生きてくるということです。型とは同じように見えて実は同じではありません。無心に踏み行なう型の中に知らず知らずのうちに生命が宿り、無限の姿を顕わすのです。それは自分が意識して生み出すのではなく与えられるものです。無心の心にのみ与えられる神様のご褒美のようなものです。このとき自分が演奏しているという意識はほとんどありません。意識は自分というものを忘れていますから、もはや執着すべき何物もありません。すなわちここに、精神の自由闊達なる躍動が生まれるのだと思います。それが型が生きてくるということではないでしょうか。型が生きてきたとき無限の力を発揮します。
(2001.3.14/中村鶴城)