Poem & Essay


型の音楽と自己表現


 こういう話をある本で読みました。
 能の喜多流シテ方の名人、友枝喜久夫師が、晩年、青山の自邸で開いていた内輪の「仕舞の会」で「蝉丸(せみまる)」を演じました。それに感動したある評論家が「あの『走り井』のところで、井戸をのぞくのはどういう気持ちでやるのか」と師に尋ねたのです。師は「やはり、そういう気持ちになってやる」とだけ答えました。それを聞いていた同席の人がすかさず「ああいうところは型通りやれば、それで生きてくるのだ」と言葉を添えました。まるで禅問答のようです。
 能は型の芸術といわれます。薩摩琵琶もまた能ほど厳密ではありませんが、おおかた型によって成り立ちます。型通り演奏することができれば、それなりのものとなります。勿論「型通り」というのは単なる紋切り型であってはなりません。それが「生きてくる」ことが必要です。しかしなぜ「型通りやれば、それで生きてくる」のでしょうか。これは実は不思議なことです。なかなか奥の深い言葉です。能では型の中に個人の心持ちの入る隙はないといわれるそうですが、それでは型の芸術にとって表現とは何なのでしょうか。
 自己表現という言葉があります。いつ頃から使われはじめた言葉でしょうか。私はかねてから、型の芸術にはどうも馴染みにくいと感じてきました。どうしてそう感じるのでしょうか。
 もし自己表現というものが単に、その人の生活の生々しい体験やそれに伴う感情や想いを伝える(ぶつける)ことであれば、誰にでもそうすべき自己はいっぱいあるでしょう。しかし、それは自分のプライベートな生活を露わにするか、あるいは人の生活を覗き見るような悪趣味であって、そこで表出される自己とは、単なる独りよがりのエゴのことに他なりません。皮相的な日常性の空間に止(とど)まっている限り、自己表現とは何とも薄っぺらな安っぽいものになってしまいます。曲中で「ここは表現豊かに、感情を込めて」などといって意識しすぎると、そこに顕れる自己とは、意外とそうした日常性の空間を引きずっていたりするものです。しかし人がわざわざ、お金を払ってまで演奏会場に足を運ぶのは、そんな他人の狭隘(きょうあい)な生な自己表現を求めてのことではありません。
 もし表現すべき自己というものがあるとすれば、それは日常の塵芥(ちりあくた)にまみれた魂魄にではなく、それを突き抜けたところにあるのではないでしょうか。それを私は人間の最も根元的な存在として霊性というものだと考えています。個々の人格的な魂魄を貫く、普遍的な生命の原理、精神とでもいいましょうか。それは恐らく誰もが、自分自身にもよく解らない深い存在の淵にあるのです。その解らない自己を求めてさまよ彷徨い、格闘する魂魄の遍歴、思索の旅、それが芸術というものでしょう。自己が自己と対峙する。自己がおのれの内なる自己を問う。芸術の本質は、自己との孤独な対話にあります。
 舞台はその対話の中で積み重ねられた思索を、人と共に分かち合うための創造的な空間です。そしてそれは演奏家にとっては、自己を確認するための場でもあります。時と空間の中に荘厳(しようごん)された場です。人が求めるのは、そうした人間の尊い営為だと思います。その姿だと思います。
 私は、型の芸術における表現とは、この自己を問う厳粛な行為そのものこと、或いはその姿そのもののことではないかと思っています。自己を表現するのではない、自己を問う姿がそのまま表現となる。尊いのは、自己を問う真剣な姿です。そしてその姿こそ美しいのだと私は思います。
 自己をことさらあらわす必要はありません。自己はあらわそうとしなくても自然と顯(あらわ)れます。滲み出るように顯(あらわ)になります。それが舞台というものです。
 型とは、先人が幾世代にも渡って洗練し鍛錬(きた)え上げ、編み出した知恵の結晶です。一つの型をとってみると、型は個的体験の総意ではありますが、粘土の塑像(そぞう)のように肉付けされて完成されたというよりは、彫刻のように逆に余計な部分、無駄な部分を徹底的に削ぎ落としてでき上がったものだと思います。ではその削り落とされた余計な部分、無駄な部分とは結局のところ何だったのでしょうか。それは云うならば自己ではなかったか。ならば型とは自己表現の場ではない。私はそう考えます。
 日本の古人(いにしへびと)はこのことを見事に喝破していたのだと思います。自己と云うものの脆弱さを知っていたのでしょう。故に自己(個人)の無名性を是とし、型の文化に辿り着いたのだと思います。型に徹することで、狭隘な自己、曖昧な自己を擲(なげう)ち、身を世界に委ねることで、かえって無限の豊かな宝を手に入れたのです。古人がすぐれていたのは、自己の存在を素直に受け入れ感謝することのできた謙虚さ、そして自己(自我)と他者(非我)の区別をことさら論(あげつら)うことなく、自己をきっぱりと捨て去ることのできた潔さにあるのではないでしょうか。私はその志の高さを、その精神の長閑(のど)やかさを日本人として誇りに思います。