Poem & Essay


古典とは何か


 古典、英語ではclassic。私の音楽活動のほとんどは古典、つまり「弾き語り」です。「コテン、コテン、コテン、コテン、コテン……ほか」といった感じです。
 数少ないその「ほか」の曲としては、武満徹さんのノヴェンバー・ステップスとかエクリプスをよく演奏します。これらの曲が、琵琶・鶴田錦史、尺八・横山勝也という傑出した二人の演奏家を得て、非常に高い極みに達したことは既によく知られていることです。
 武満さんの曲は、古典曲にはないテクスチュアや音のひびきの宝庫で、いつも新鮮で深い魅力に満ちています。私は、これらの曲を学んだおかげで、逆に古典曲の解釈に新しい視点を見出すことができました。
 このことは、これらの曲が、古典という大樹の幹にしっかりと繋がっていることを意味します。あるいは、作曲家が古典の本質を見極め、その大切さを認識していたからこそ、見事に繋がることができたということができるでしょう。
ところで、誰もが古典は大事である、基本であるといいますが、なぜそうなのでしょうか。また、そもそも古典とは何でしょうか。
 ひとつの手がかりとして、漢字の本源的な意味を探る白川文字学の視点から、その意味するところを少し考えてみます。

古典の「古」とは、十と口から成る会意(かいい)文字。十は方形の干(たて)、口は
(さい)。干は防具、は神に祈るときに用いる聖器で、中に祝詞(のりと)を収めるもの。この大切な祝詞の威力を維持するために、の器の上に干をおいて守るのです。「古」とは固く守られた祝祷(しゅくとう)を意味し、その詞(ことば)には霊力が宿っていると考えられていました。

 次に「典」。これは冊(さつ)と
(き)から成ります。冊は「かきつけ・ふみ」の意で書籍のこと。は机の意。したがって、典とは机の上に書籍が置かれている形で、これが帝王の書である典尚(てんしょう)や国の典範(てんぱん)を意味するようになりました。
 つまり古典とは、第一義に、古へ人が神に対して捧げた詞ということです。それは霊力に満ち、命を宿しています。ゆえに、大切な先例、典故、規範として書き記され、守り伝えられねばなりません。
 しかし、古典とはただ古いだけのものではありません。古いから大切なのではありません。また、古いから古典なのでもありません。

 古典とは、今なお、活力を有し活々と生きつづけている生命なのです。躍動する生命なのです。大切なのは、
と干という型に守られている内側の「こころ」であり「いのち」です。学ぶべきは古え人が大切に育んだ「こころ」であり、伝えるべきはその「いのち」です。その「こころ」と「いのち」が生かされることが大事なのです。それが生かされているものを古典、あるいは古典的と呼ぶのではないでしょうか。

 そこには、先人のたゆまない努力と格闘、祈り、願い、信念、至誠、愛情、あるいは悲しみや苦しみ、喜びと笑い、苦悩、歓喜が、つまり人の心の想い、精神の営為、魂の歴史、生きた証がいくえにも、いくえにも畳まりながら流れています。だから古典は、重く、深く、尊いのでしょう。

 古典を学ぶとは、先人のその「こころ」を尋ね知り、その「いのち」をわが身に宿すことではないでしょうか。そのとき、私たちは先人とともに古へを生きる。先人は私たちとともに今を生きる。その共感こそが古典の悦びであり、時空を越えるその力こそが古典の普遍性であると思います。
 以上のような意味において、武満さんの曲に立ち返りますと、氏の曲は現代曲ではあるけれども、きわめて古典的、classicであると強く感ずるのです。弾き語りに用いられるような類型的な型はほとんど見当たらない、それどころかまったく新しい音楽語法によって構成されている、にもかかわらず古典的と感ずるのです。この一見逆説的な現象こそが、古典というものの本質を見事に顕わしているといえるでしょう。
(中村鶴城)