Poem & Essay



特別な音楽、特別な出来事としてのノヴェンバー


 一昨年、作曲家の武満徹氏が亡くなられましたが、ここ約二年間の武満作品の演奏の回数は大変な数に上っているようです。代表作のひとつである《ノヴェンバー・ステップス》も例外ではありません。私が琵琶を担当させて頂いたものだけでも六回もあります。
 二年前の夏、パシフィック・ミュージック・フェスティバルでクリストフ・エッシェンバッハ氏の指揮で演奏したのが私の初演となりました。尺八の共演者は横山勝也氏です。その後、横山氏を“音の導師”と頼みながら、演奏を重ね、鍛えられてゆくうちに、次第にノヴェンバーという曲は“特別な音楽、特別な出来事”ではないかという印象を強くしてゆきました。
 そのことを確信したのは、この二月、長野の冬期オリンピックのIOC総会オープニングセレモニーで、小澤征爾氏の指揮、尺八を横山勝也氏で演奏する機会をえたときです。
二人は、琵琶の鶴田錦史師(私の師匠で三年前に亡くなられました)と共に、この曲の世界初演のときのメンバーです。三十年以上も前の一九六七年、武満徹氏が軽井沢で、この曲の作曲に取り組んでいたとき、三人がそこに集まり、四ヵ月にも渡り作曲者、指揮者、演奏者の三者が一体となって曲作りに情熱を注いだのです。それは今日では実現しがたい“幸福なる格闘の日々”であったに違いありません。
 その年の十一月、《ノヴェンバー・ステップス》と名づけられたこの曲は、ニューヨークフィルの定期演奏会で初演され大成功を納めました。
 いま残念ながら、この四人のうち二人を喪ってしまいましたが、今回のリハーサルのとき、残された二人、小澤征爾、横山勝也両氏の会話や、曲の解釈やアーティキュレーションなどについてのやり取りを聞いていると、二人の間に漂う空気に、この曲の希有な成り立ちが想像され、ノヴェンバーとは、四人の同志による“幸福なる格闘の日々”より生まれた“特別の音楽、特別の出来事”であって、その「時間」を共有していないものには到りがたく味得しがたい深奥(おくが)があるように感じました。
 四人の同志のかたい絆、この曲に対するその想いの深さのいかほどでしょうか。本番が終わった直後、小澤氏が舞台袖で、私に言い放ちました。「僕の頭は武満、鶴田だよ!」
 ノヴェンバーの初演とは、琵琶、尺八というそれまでほとんど知られていなかった日本の音楽が世界の舞台に問われることでした。その重圧の中で、四人の同志の、その心のうちには、その命運を背って立つ真摯な決意と気概があったのです。その日本人としての自覚と気魂がこそが、ノヴェンバーという確固たる存在感のある創造空間を産み出したのだと私は考えています。四人の同志とはこの意味に於いて同志なのです。
 こうしてひとつひとつの演奏のなかで先達に導かれながら、私の中に、私にとっての“特別な音楽、特別な出来事”としてのノヴェンバーが育ってゆくのを感じます。私のノヴェンバーへの想いは、かつては夢多き青春の遥かなる憧れに過ぎませんでした。今は、四人の先人に対する深い敬意です。あるいは敬情とでもいったほうがいいかもしれません。今回、小澤、横山両氏と同じ舞台を共にさせていただいたことの意味は誠に深く重要で、幸せなことでした。二人の、時間を経て育まれた勇者の風格、気迫に触れることで、譜面からだけでは決して学ぶことのできない、ノヴェンバーの霊気のようなものを、経験できたような気がするからです。
四人の同志の、その凌雲(りょうん)の志を仰ぎながら、ノヴェンバー、万歳!!
(中村鶴城)