Poem & Essay



琵琶に寄せて(二)「諦念」


 琵琶が物珍しいからか、よく入門の動機を聞かれる。しかし、動機というほどのも のはない。偶然に出会い、衝動的に入門したのである。それまで、琵琶とは全く無縁 であったから、琵琶が好きで入門したわけではなかった。ただ、十五のとき、カザル スのチェロの演奏に深い感動を受け、それ以来、心の何処かに音楽家になりたいとい う憧れがあって、いずれ何か楽器を上手く弾けるようになりたいと願っていた。それ が、楽器を始めた直接の契機である。しかし、どうして琵琶だったのか、今なお私自 身にもよく解らない。「衝動的」とはそういうことである。兎も角、そこに在ったも のがたまたま琵琶だった、というような気がする。ところが始めてみると、それが中 々性(しょう)にあった。練習は楽しかった。夢中で弾いているうちに、いつの間に かその心地好い時間の中に揺蕩(たゆと)うて、琵琶を抱いたまま微睡(まどろ)む こともあった。
 こうして琵琶は、私の人生に突然現れ、そして気がついたときには、もうそこから 逃れられなくなっていた。「逃れられない」とは、琵琶には何となく心染む不思議な 魅力があるからである。しかし、琵琶をやめようと思ったことは何度もある。自慢に もならないが、ある時期、一年以上も琵琶に触らなかった。すっかり埃に塗(まみ) れた琵琶を眺めながら、食べていけるかどうかも分からない琵琶を、果たしてこのま ま続けてよいものか、三十を過ぎたころから随分と悩んだ。好きで好きでたまらない というのでもない、生業(なりわい)になるかどうかも分からない、それならば、や めればよいではないかというのは尤もな論理であろう。しかし、かといって決して嫌 いでもない、なぜか気になって、やればこれが中々興味しろくて奥が深い。人に琵琶 をやっていると言えば、たいそう珍らしがられ、行く末は人間国宝だ、などと煽てら れて少々いい気分になる。これ迄援助してくれた両親にも申しわけない。それに、何 となくやめてはならないような気がする、というような調子で、今日までずるずると 続けて来たというのが正直なところであろうか。
 今だからこそ言えるが、三十四の夏、コンク−ルに出場したときは、これを最後に 琵琶をやめるつもりでいた。よくよく決心してのことであった。掉尾(ちょうび)の 勇を奮うつもりなどなかったから、練習はほとんど何もしなかった。ところが、どう したわけか一位になってしまったのである。こんな筈ではないと思いながら、皆から 祝福を受ける最中、まさかこれで琵琶をやめますとも言えない。あれよという間に、 親戚の人からは、よくぞこれまで頑張ったとお祝を戴き、ついには記念のお披露目ま で開いて頂くことになり、まだまだこれからが大変だからしっかりやりなさいと色々 な人から激励を受けた。
 そうこうするうち、私はすっかりその気になってしまった。あれほど強く決心した はずの事は、一体何だったのか、最早、そんなことすら考えることもなく、いつの間 にか、悩むことをパタリとやめていた。何年も悩み続けた優柔不断な私を諦念(てい ねん)に至らしめたのであるから、コンク−ルとは実に有意義なものであった。「や めた」のは琵琶ではなく、悩むことであった。
 それにしても、やめようと思えば何時でもやめられた筈のことを十六年もやめずに 来たということは、やはり余程、琵琶に縁あってのことと思う。そして、そういうも のに巡り会えたことを、本当に幸福なことだと思う。
(1993年9月「琵琶を知る会」パンフレット初出)