Poem & Essay



琵琶に寄せて(一)「看板」


 十六年前の五月下旬の頃である。
 初夏の日射しが眩しかった。
 大学に入学したばかりの私は、住むことになったアパートの界隈を、陽気につられ て、ただぶらぶらと散歩していた。ある家の前を通りかかったとき、小さな木製の看 板が目に入った。白地に黒のペンキで書かれた、何の変哲もない看板である。
 「初心者歓迎、即入門可」
筑前琵琶の師匠の家であった。その頃私は、是非とも何か楽器をひとつ習いたいと思 っていたところである。しかし、琵琶とは。そんなものは正倉院の蔵の中にしかある まいと思っていたから、こんな所でお目にかかれるのか、急にわくわくしてきて、琵 琶の音を実際に聴いてみたくなった。
 それから数日後、その門を潜った。
 藤巻旭鴻(ふじまき・きょっこう)という人であった。六十過ぎであろうか、髪は 薄くて白髪が交じっている。着物姿で、眼鏡(めがね)の奥にくるりとした、ひとの よさそうな目が光っている。琵琶を聴かせてほしいと言うと、その人は顔を紅潮させ て、いたく喜んだ。後でわかったことだが、いまどき琵琶が聴きたいといって突然尋 ねて来る人など、後にも先にも私だけだったのである。
 何を弾いてもらったのか記憶にない。それに大変申しわけないが、特に感動もしな かった。しかし、どういうのだろう、初めてあの看板を目にしたときから、無性に琵 琶をやりたくなって、少々大袈裟かもしれないが、琵琶がまるで希望そのものである かのように輝いてきたのである。第一、珍しくて、やっている人が少ないというのが 何よりの魅力ではないか。
 私はその場で入門を乞うた。
 勿論、即入門となった。
   昨年、久しぶりに先生のお宅を尋ねた。家は建て替えられたばかりで真新しかった 。先生は既に九年前に亡くなられている。
 私を琵琶に導いてくれたあの看板も、今はもうない。
(1993年6月「琵琶を知る会」パンフレット初出)