Poem & Essay


光と影

 「光明の語り」を宣言して七年が経つ。宣言した年に、それまでのファンの多くが去った。「平家物語が聞きたかったのに」「悲劇語りがいいのに」という一部の声が聞こえてきた。悲劇に強く共感する人の反発のようなものさえ感じた。大方、去っていった理由を代表していると思う。寂しくもあったが、だからといって、もとに戻る気は全くない。なぜなら、私は自分の内なる欲求に素直に従っただけだから。
 最近も、数年前のリサイタルで《アッシジの聖フランチェスコ》を聴いたという人から、このような意見があったことを知った。
 「光にこだわりすぎだ。影があるからこそ光があるのに」
 ここで言(こと)を論(あげつ)らうつもりはないが、私の視点はそれとは全く逆である。
 「影にこだわりすぎだ。光があるからこそ影があるのに」
 何を存在の実体と捉えるか。その違いではないだろうか。私は、光こそ実体であると直観し確信している。それに、いま「光があるからこそ影がある」と言ったが、その影さえ、圧倒的な光明の前にはいずれ消え去るに違いない。究極的には光一元の世界にしか真の意味の救いはないと私は思う。実体のないものはいつかは消え去る。それは人間の霊性発展のたどるべき未来の姿であると信じる。
 だが、このことは一般にはすぐには理解してもらえないだろう。誤解も招くかもしれない。光を強調しすぎれば、今飢えている人を目の前にして「人はパンのみで生くるにあらず」と説教する愚であると批判もされるだろう。
 それでもなお私は、光明の語りを語らずにはいられない。誰のためでもない、自分自身のために。私にとって琵琶語りは、己の内なる表出に他ならない。素直な告白だ。私は、心の奥底から溢れてくるものを語っているだけなのだ。それが光にこだわりすぎだというなら、それも仕方ない。溢れてくるのだから。
 私は不器用で単純な人間だ。光が見えるのに影を語ることなどできない。自分に正直でなければ、魂は悦ばない。自らの魂が悦ばない「光明の語り」などありえない。
 「光明の語り」とは、結局、自らの生命を光輝かせることなのだから。

(2007/08/11)