琵琶を知る




鶴田流について


鶴田流とは

 古代ペルシアよりシルクロードを経て遥々日本にまで伝来した琵琶は、日本の風土と文化に深く根を下ろし、今日まで絶えることなく受け継がれてきました。その過程の中で、いくたびも変貌を重ねながら、いく種類もの琵琶や、流派が産み出されてきました。そして、今日、その歴史に新たな琵琶として記され、ひとつの重要な流れになりつつあるのが、薩摩琵琶《鶴田流》です。
 鶴田流は、鶴田錦史(つるたきんし)(1911〜95)によって始められました。音楽の基盤は、同じ薩摩琵琶の錦心(きんしん)流や錦(にしき)琵琶です。その伝統の上に、長年にわたって創意工夫を重ね、特に1960年代の、作曲家、武満徹との一連の共同作業(映画『怪談』の音楽や、『エクリプス』『ノヴェンバー・ステップス』など)をきっかけに、鶴田錦史の音楽は、従来の琵琶音楽の枠を完全に抜け出し、それまでの如何なる琵琶とも異なる、全く新しい美学を持った琵琶として生まれ変わり、今日、薩摩琵琶《鶴田流》、あるいは鶴田流琵琶として高い評価を受けています。

鶴田流の特徴
 武満徹の代表作のひとつである『ノヴェンバー・ステップス』(オーケストラと琵琶、尺八の為の作品)は、1967年、小澤征爾指揮、ニューヨーク・フィルによって初演されて以来、現代曲としては稀にみる再演回数を重ねてきました。その間、ほぼ一貫して琵琶の演奏を担当してきた鶴田錦史は、その気迫溢れる鮮烈な演奏によって、薩摩琵琶を一躍、世界的に有名なものにしました。しかし、鶴田錦史がこうした古典以外の領域で極めて有意義な成果を産み出すことができたのは、逆に古典こそ、琵琶の拠って立つべき創造の源泉であることを忘れなかったからである、ということに注意しなければなりません。
 伝統芸術の世界で「新しい」ということに意味があるのは、古典の様式美をしっかりと踏まえた上でのことです。いたずらに現代に迎合しても、真に新しいものは決して生まれません。鶴田錦史は、このことを十分認識した上で、古典への深い造詣とすぐれた直感力によって、それまでの琵琶楽に、楽器、奏法、語り、弾法(だんぽう)、詞章(ししょう)などの面から、徹底した考察と創意工夫を加えました。
その広範にわたる総合的な追求の結果が、そのまま鶴田流の特徴として表れています。

【楽器の改良】
 従来、薩摩琵琶では《四弦四柱》の琵琶を使用してきましたが、鶴田流では《鶴田式・五弦五柱》を使います。基本的構造は同じです。楽器の工夫は、楽器本体は勿論のこと、柱(ちゆう)、撥(ばち)、弦などに及びます。
 もともと薩摩琵琶は、楽器の構造の上からみると、響板や胴が驚くほど厚いうえに、響板の裏に補強板(渡(わた)し)や、響板と胴を繋ぐ心棒(根柱(こんちゅう))を添え、敢えて響きを抑制しています。これが薩摩琵琶独特の、芯のある、ストイックな音色を産み出しているわけですが、音量という点では現代の演奏形態や環境の中では、いささか問題があるといわねばなりません。
 そこで鶴田流では、個々の楽器の性質を見極めた上で、薩摩琵琶本来の音色を損なわない程度に、響板と胴を薄くし、音量を大きくすると同時に、特に低音弦がよく響くよう改良した琵琶が好んで用いられます。また、こうした改良は単に音量のみならず、後述する弦音と打撃音とのバランスの問題とも深く関わっています。
 柱の形状は独特の菊水型を用いたり、糸口のところで各糸の弦長を調整する方法を用いたりして、従来の直線型の欠点であった音程のズレ(同じ弦長では太い弦ほど同ポジションでの音高が高くなる現象)をほぼ解決し、正確なピッチを出すことが容易になりました。
 薩摩琵琶奏法の大きな特徴のひとつは撥先で弦を弾くと同時に、その勢いで響板を打つ点にあります。したがって、弦音と打撃音のバランスが、音楽表現のうえで非常に大切なわけです。そのバランスを決定するのは、撥や響板の厚さですが、これまではほとんど問題とされていませんでした。鶴田流では特に撥に手を加え、従来よりも相当薄くすることによって、そのバランスを調整しています。
 また、薄くした結果、撥はよく撓(しな)るようになりますが、これは後述する《ハタキ》という奏法にとっても必要な改良でした。さらにまた、バランスだけではなく、弦の音色や、打つ響きそのものが、繊細さや深みを増したことも大きな成果でした。
 弦は品質が最も大切な要素であることはいうまでもありません。弦は絹糸を撚ってつくったものですが、鶴田流ではその撚り方にまで注意を払います。さらに楽器の素質や演奏曲目、調子の高さにより、最も適した弦の太さを選んでいます。
 以上のような様々な工夫の積重ねの結果、鶴田流の楽器は明らかに、これまでの薩摩琵琶とは一線を画す音色を獲得しました。

【奏法の考案工夫】
 楽器本体や撥の様々な部分に注目し、楽器としての表現の可能性を求めた結果、従来の奏法に加え、いくつかの新しい奏法が考案され、現代的奏法として定着しました。
 新奏法は、単なる奇抜なアイデアであってはなりません。芸術的表現に昇華することができて初めて、意味があるといえるでしょう。ここでは、その中から特に重要な二つの奏法を紹介します。
 薩摩琵琶のまったく新しい表情として加わったのが《擦(す)り撥》です。これは撥の30センチ近くもある底辺(裾(すそ))を使って、弦を縦方向や横方向、あるいはこれらを様々に組み合わせて擦る、擦弦楽器的な奏法です。古典曲の中でもしばしば用いられ、今では、なくてはならない大切な奏法となりました。この結果、薩摩琵琶は撥弦(はつげん)楽器(はじく)、打楽器(うつ)、擦弦(さつげん)楽器(する)という三つの要素を持つことになりました。
 古典的奏法の中に《打ち撥》、すなわち弦を弾くだけでなく、同時に撥先で響板を打つという打楽器的奏法があります。これを発展させ、撥の更に広い面を利用して強く叩くのが《ハタキ》という奏法です。この非常に強烈な打撃音を手に入れることによって、薩摩琵琶はいっそう力強いものとなり、その剛柔強弱の表現の幅を拡げました。これは、楽器本体や撥の改良が伴わなければできなかったことです。
 その他にもいくつかの手法が、美学的必然性を備えた音楽語法として定着し、鶴田流の豊かな表現を産み出しています。

【総合的音楽としての探求】
 日本の琵琶の歴史を眺めると、琵琶楽は器楽音楽としての楽琵琶、宗教音楽としての盲僧琵琶、語りもの音楽としての平家琵琶など、それぞれの時代の空気を採り入れながら様々な側面をみせてきました。薩摩琵琶についてみれば、武士の教訓歌、教養歌として始まったわけですが、時代とともに変容し、今日では、語りもの音楽としての性格が最も強くなっています。
 語りもの音楽として薩摩琵琶をみるとき、そこには声楽としての《語り》、器楽としての《弾法》、語られる文芸としての《詞章》(語られる内容)という三つの要素があります。
 薩摩琵琶はこれまで、《語り》と、それと不可分の《詞章》に重きが置かれてきました。つまり、武士の教訓歌、教養歌として始まったという歴史が物語るように、最も大切なことは、語られる内容であり、総体としての音楽そのものではありませんでした。これは平家琵琶なども含め、語りもの音楽として、ある意味で当然のことかもしれません。
 そこで鶴田錦史は、琵琶楽を、声と楽器による総合的音楽として、純粋に、音という響きの世界の中で捉え直しました。その成果は先ず、楽器の改良や、奏法の考案工夫などを伴う《弾法(だんぽう)》に現れます。琵琶は単に調子や間合(まあい)を取るだけの付随的な楽器であってはならないと考えました。そして、軽視されがちであった《弾法》を整理洗練させ、あるいは発展させ、独自の様式にまで高め、《弾法》による精緻な音楽表現の可能性を追求しました。わずか一撥(一音)でも、確固とした世界を披くことができる、そのような音楽をめざしましたのです。
 《語り》や《詞章》も、同じ観点から見直されました。《詞章》は《語り》の内容ですが、それは文字である以前に、まず声であり、想いや情感、人間内部の深いひだ襞をあらわにする、呼吸(いき)です。人々が感動するの は、言葉の意味にではなく、声の響きや呼吸の間(ま)です。これを《語り》の最も大切な本質と考えます。勿論、声そのものの鍛錬や節回しの技術も、これまで以上に求められます。
 こうして薩摩琵琶は、より豊かな音楽世界として革新されましたが、しかしながら、語りもの音楽である以上、《詞章》の内容が重要であることに変わりありません。鶴田流では、伝承されてきた詞章を無批判に受け入れる事はありません。
 《詞章》の素材は、当然のことながら、それぞれの時代を反映しています。しかし、例えば明治以降の戦争物などのように、時事的傾向の強いものは、素材への関心が薄れた今日では、なかなか人々の共感を得ることは難しくおもわれます。また言葉が難解なために、聴くだけでは何が語られているのか分からないものもあります。素材に普遍性を得た作品も、細部の説明的叙述にとらわれて冗長になり、その結果、ストーリーが分かりにくくなったり、ついには曲想を損なってしまう場合も多くあります。
 このような点に鑑み、《詞章》の条件として、普遍性のあること、ドラマ性のあること、文芸的に優れていること、品格を有していること、ストーリーがシンプルであること、細部の説明的叙述を避け簡潔であることなどを課し、現代に通用し、さらには次代に伝える価値のある素材を選びだすよう努力しています。
 ところで、ひとつの作品の創作の過程で、これらの《語り》《弾法》《詞章》は、決して個別に扱われることはありません。常に三者の兼ね合いが考慮され、相互に生かし合い、補い合うよう一体化されます。そこに、鶴田流の求める、古典としての総合的音楽の姿があります。鶴田流は、琵琶の楽器としての独立性を特徴としながら、琵琶楽を芸術性の高い、品格のある総合的音楽に高めていくことを、課題とし探求しています。
(記・中村鶴城)