琵琶を知る


「琵琶伝」誕生

 琵琶歌は、文語(古語)で歌いますが、時々「文語は解りにくい。現代語で歌えないのか」と質問されます。歌えないとは言い切れません。しかし、滑稽なくらいまったく様になりません。琵琶歌の歌い方は、文語によって数百年以上かけて煉られてきたものですから、現代語ではどうにも間が合わないのです。それに現代語は文語に比べ、ひびきの潤い、余韻、奥深さに欠けます。品格と芸術性ということでいえば、文語の方が大きく優っているように感じます。
 こうした文語のすばらしさを伝え残したいと強く願う一方で、残念ながら、文語は現代人には解りにくくなっていることも事実です。しかも、それを歌うわけですから、ただ単に朗読するよりも何倍もの時間を必要とします。結果、多くを語れず、物語の展開を理解してもらうことに大変苦労します。題材が、あまり馴染みのないものであれば尚更のこと、語り物としては致命的な問題です。本来大衆的であったはずの琵琶語りは、もはや時代から乖離しているのではないだろうかと、一人の語り手として、何となく疎外感を感じることもあります。
 では何かよい解決法はないのでしょうか。そのとき頭をよぎったのが「絵伝」という、絵と詞《ことば》の組み合わせです。
 鎌倉時代の絵巻に『一遍上人絵伝』という傑作があります。一遍上人の教化遍歴を絵と詞書きによって表したものです。良寛の創作に打ち込んでいたとき、ふと何気なく、この絵伝のことが思い起こされ、「絵伝というものがあるなら、琵琶伝があってもいい」と思いました。それを琵琶語りに置き換えてみると───物語の展開は、現代語による朗読を基調とすることによって理解してもらい、その中に従来の文語の琵琶歌を織り込めばいいのではないか。つまり、叙事性を得意とする朗読と、叙情性を得意とする琵琶歌という音楽を組み合わせる。そうすれば、相互に補い合いながら変化も生まれ、琵琶歌の魅力を残しつつ、しかも伝えたいメッセージを十分盛り込んで物語を語れるのではないか。
 『良寛禅師琵琶伝』は、良寛の生涯を、現代語による朗読と、文語による古典的な琵琶歌によって、解りやすく、しかも詩情豊かに綴ることを試みるものです。
 琵琶絵巻とでもいうべき「琵琶伝」の誕生であります。
(2007年、「中村鶴城 語りの会」パンフレットより)