じゅげむ?


2007年 4期






本当の占いとは

  儒教の経書のひとつである『易』。易とは簡単にいえば占いのことです。本田濟《わたる》訳本(朝日選書)の冒頭解説に次のような一文があります。占いの本質について、朱子の『朱子語類』を引用たものです。
 「易は、人のために占って疑惑を断ち切るためのものである。道理としてこうすべきなら、当然そうすべきである。道理としてしてならぬなら、してはならぬ。そういう場合、改めて占う必要はない。正しいことで道が二つに分かれて迷うときにだけ占うのである。悪いこと、私欲のことについて占ってはいけない」
 当世、占いといえば、世俗的な私利私欲、現世利益というイメージが強く感じられてなりません。想像するに、今日、人が占いに頼っているその内容といえば、おそらく自分自身のことや親しい身内に関わることがほとんどでありましょう。この人と結婚してもよいだろうか、この仕事は自分に向いているだろうか、この土地は買ってもよいだろうか・・・・などなど。しかし、これはまさに私事。自分の目先の損得を計ろうとすること。朱子はこのような事は占うべきことではないとはっきり言っているわけです。
 実は私も大学時代、占いに興味があったことがありました。しかし、人に占ってもらうと、自分の人生の判断を他人に委ねるような後味の悪さがあり、何か心がすっきりとしませんでした。
 人間は自らの意志と判断で人生を選択してこそ、本当に学び成長できます。例え失敗したとしても、自分自身で決めたことであれば納得できるし、その失敗という経験を成長の糧にすることができます。また自分で選んだことが正しければ大きな自信になります。ある時、私はそのことにはっきりと気づき、自分の人生の選択を他人に占ってもらうことなど本当に愚かなことだったと反省し、占いの類にまったく関心がなくなりました。
 人は、結局、自分自身意外に拠り所はないのです。己の寄る辺《べ》は己なり。それが道理なのです。私事私欲の占いは、他者に人生の判断を委ねることであり、その道理に反するのです。「道理としてこうすべきなら、当然そうすべきである。道理としてしてならぬなら、してはならぬ」のであります。私が、占ってもらって後味が悪かったのは、そのことを心の奥底で感じていたからだと思います。私の魂は、自分自身で決定したいと欲していたのです。
 いまこの文章を書きながら、ふとこう思いました。
 『易』は『易経』とも云う。その「経」とは天地を貫く縦糸のこと。すなわち道理、道のこと。ならば本当の意味の占いとは、自らの心のうちに、拠り所としての「経=道理=道」を打ち立てて、己を糺《ただ》すことではないのか。
 ああ、そうそう、思い出しました。西郷隆盛いわく、「人は道を行ふものゆゑ、道を踏むには上手下手もなく、出来ざる人も無し」と。道は天地に自ずそなわったもの、踏み行えぬ道理はない。隆盛は、そのように言っているわけであります。
 

(2007/12/30)
 
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想像力の欠如

 今日、地下鉄を利用した際こんなことがあった。
 ひとつめ。私はドアのそばの吊革につかまって立っていた。次の駅で一人のかなり高齢のおばあちゃんが乗車してきた。足がよたよたしておぼつかない。満席で座れないが誰も席を譲ろうとしない。仕方なくドア近くのステンレスの手すりにつかまった。しばらくして急ブレーキ。おばあちゃんは手すりから手が外れて私の目の前に大きくよろめいて倒れかかった。とっさに私は吊革から手を離し両手で抱きかかえて踏ん張った。私も、おばあちゃんも、なんとか倒れずに済んだ。目の前の座席には、眠っていた五十半ばくらいのおじさん。その隣には二十代の大きな青年。おじさんは事に気がついてすぐに席を譲ったが、青年は譲ろうかと迷うそぶりもなかった。
 次の駅で別のおばあちゃんが乗車してきた。電車はさらに混みあって空席はなく、ちょうどその青年の前に立った。しかし、青年は今度もまた席を譲らなかった。今しがた、あのおばあちゃんが危険な目にあったのを目の当たりにしたはずなのに、何事もなかったかのように平然としていた。
 ふたつめ。それから程なく、私は乗り換えのために別の電車を待った。電車が到着しドアが開くと、ひとりの若い母親がベビーカーを押して下車しようとした。電車とホームの段差は大きい。私は当然、母親はベビーカーを抱えて出るのかと思っていた。ところが、そのまま無理に押して出ようとした。ベビーカーは大きく前のめりに傾き、その瞬間、乗っていた赤ちゃんが頭から飛び出てころげ落ちそうになった。私はドアから二メートルくらい離れて立っていたが、とっさに駆けよりつまづきそうになりながらも両手をさしだして幼児を支えた。近くにいた別の男性も同時に手をさしのべて助けた。幸い、事なきを得た。
 偶然にも、短い時間の間に二人を助けることになったのであるが、私は何かしら気持ちが重かった。
「若者よ! 何なんだ! いったい何をしているんだ〜!」
 心が、そう叫んでいた。
 私だって大きな事は言えない。人の批判は好まない。けれども何かおかしい。おそらく、この二人の若者は決して悪い人間ではないし、非情な人間でもないだろう。ただ、想像力が欠けている。あの青年も、あの母親も、ほんのちょっと想像すればよかったのだ。
 どんなに情報や知識をいっぱい詰め込んでも、想像力が欠けていては何にもならない。優しく豊かな心とは、想像力のある心だと思う。
 立っていても、座っていても、そして歩いているときでさえ携帯電話を覗いている人が多くなった。世界は小さく萎縮して、その人のところだけで完結している。なんだか虚ろでさびしそうに見えるのは気のせいだろうか。

(2007/12/19)

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薔薇一輪




 先日、14日に日比谷公会堂で東邦音楽大学オーケストラの定期公演が行われ、武満徹作曲の《ノヴェンバー・ステップス》を演奏いたしました。指揮は本名徹次さん、尺八は柿堺香さん。
 演奏後のカーテンコールで花束を頂きました(ありがとうございました!)。自宅に帰って花瓶に挿しましたが、その花束の中に黄色い薔薇の花が三輪。その美しさに惹かれ、その一輪だけを別のガラスの花瓶に挿して写真を撮ってみました。
 花と葉っぱと花瓶の三つが美しく見える、角度とバランスを探しながら撮った数十枚の写真。最後に選んだ一枚がこれです。いかがでしょう?
 花は今日もまだ咲いています。

 (2007/12/18)
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奏楽飛天の琵琶


ハノイ国立美術博物館蔵

 前回ご紹介しましたハノイ美術博物館に、奏楽飛天の琵琶の木彫レリーフがありました。年代をうっかり書き留めておくのを忘れましたが、美術館発行のカタログに別の奏楽人像を象ったレリーフが載っていて、それが14世紀とあります。このレリーフもこの辺りの作品なのでしょうか・・・・・。レリーフにつけられた呼称も判りません。
 というよりも、このヴェトナムの地でも、こうして古い昔は、天上の音楽として琵琶が登場しているということが重要です。私がかつて憧れたのは、法隆寺金堂天蓋
(てんがい)の奏楽飛天琵琶の像でした。思いがけずこの地でも同じ天上の響きを発見でき、やはり還るべきところは「光の語り」と頷いた次第です。
 シルクロードを経て広く東西に分布した琵琶。音楽的には必ずしも語りがあったわけではなく、日本の雅楽のように器楽のみの場合もありますが、こうして、かつては天上の響きが奏でられていたのでしょう。


(2007/12/10)
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ヴェトナム絵画の美 


  
左より;Little Thuy`s portrait ,1943 Oil on canas /A women ,1945 Silk / Innocence 1954 Oil on canas
(
美術博物館発行の絵葉書より転載、作者名はヴェトナム語で読めませんの省略しました)


 武満徹の《ノヴェンバー・ステップス》ヴェトナム初演に出演するため、一週間ほどハノイに行ってきました。本番までに十分な時間がありましたので、ハノイ国立美術博物館を訪れました。収蔵品は古代彫刻から現代美術まで。
 ヴェトナムは今、かつての日本の高度成長期の二倍のスピードで経済成長をしているそうで、国の平均年齢が20代後半という若くてエネルギッシュな国です。交通手段のほとんどはバイク。車はタクシーや観光バス、商業車が中心です。ホテルの窓から、ハノイの中心街の様子がよく見えましたが、すさまじい数のバイクが列をなして狭い道を埋め尽くしながら行き交う様は、まるで大蛇がくねくねとうごめいているよう。信号はあってないようなもの。中央線もあってないようなもの。皆がクラクションをけたたましく鳴らすので、その喧噪といったら、ちょっと目眩がするほどでした。一週間ぶりに日本に戻って、東京の街が静かに感じたほどです。
 そんな騒々しさとは裏腹に、ヴェトナム美術の第一印象は、何かしら心やすらぐ雰囲気をもっていました。同じ東洋といっても、日本的な文化土壌と極めて近いように感じました。
 そのなかで、特に女性や子供を描いた現代絵画に強く惹かれました。やさしいまなざしが感じられ、淡い光に輝く画が多かったように思います。ヴェトナム戦争の大惨禍を経験した民族ですが、そうした悲劇を乗り越えて、人間の内面の美しさを看取る愛情深さを感じたのです。戦争画さえも、暗く深く沈潜して悲しみや恨みの情念に胸をえぐられるというのではなく、人間性に対する希望を失わない暖かみのある視点があるように思えました。そうした豊かで細やかな、そしてやさしい情愛がもっとも良く現れているのが女性像ではないでしょうか。ここに転載した画像は、絵はがきからスキャニングしたものですが、実際に展示された画は、照明の関係もあってか、じつにほの温かい光を放っており、しばし時間を忘れて見とれてしまいました。日本人の作品といっても誰も疑わないくらい、日本的感性に近いものを感じました。

(2007/11/27)
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絵本『フランチェスコのうた』


『フランチェスコのうた』桜きょうこ著、新風舎、2007刊より

 「平和の祈り」や「太陽讃歌」で知られるアッシジの聖フランチェスコ。そのフランチェスコの精神(こころ)が見事に凝縮された絵本が誕生した。絵本画家、桜きょうこさんの『フランチェスコのうた』である。
 桜さんの絵には、強い自己主張がどこにもない。清らかな泉が、よどみなく湧き出づるような安らかさと静けさがある。春の淡い日差しが、体をそっと温めてくれるような光と優しさに溢れている。それが活かされ、フランチェスコの精神とおのず一体化したのがこの絵本だと思う。フランチェスコをこよなく愛する作者は、まさに彼女の愛そのもの、感謝そのもの、祈りそのものを、この絵本に込めた。その意味でこの絵本は、作者自身の「平和の祈り」であり「太陽讃歌」に他ならない。
 絵の作品は表紙を含めて十二点。それに簡潔な言葉が添えられている。その言葉は、全体として一つの詩になっていて、絵とともにフランチェスコの本質を、美しく優しく、まさに愛に満ちた光そのもので謳いあげる。
 削ぎ落とされ、選び取られた言葉。それは純化された宝石のよう、一粒一粒が輝き益して、まるで淡雪が融けるよう心に染みこんで、フランチェスコの愛の世界が一瞬にして読者を包む。
 その余韻はやがて画に流れこみ響きあう。いつしか涯なき想像の世界を繰り広げる。しかしそれは、決して空想や幻想の世界ではない。聖フランチェスコの意識そのものであり、実在そのものである。ゆえに読者は竟
(つい)に、フランチェスコの腕(かいな)に抱かれながら、自然讃歌を子守歌に、壮大な宇宙の光の海に揺られずにはいられない。
 この絵本は、単にフランチェスコの生涯をつづった絵本ではない。人間と自然の本質を指し示す真理のひびきに充ちている。どこか懐かしい、魂のふるさとのような郷愁が漂う。

2004年と2005年の私のリサイタルでは、創作曲《アッシジの聖フランチェスコ》全五段を発表しましたが、そのとき、ホールのホワイエでフランチェスコの画の展示をしてくださったのが桜きょうこさんです。その後、さらに絵や言葉をあたため続け、ついに完成したのがこの絵本です。待ちに待った絵本です。

 (2007/11/11)
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ホームページ開設7周年


《花は夢みる》
〜ホームページ開設7周年を記念して〜

©
image: Kakujo Nakamura

 当サイトを開設しましたのが、2000年10月30日。本日でちょうど7周年を迎えます。
 いつも閲覧してくださってありがとうございます。
 現在では、誰もが簡単に開設できるようになりましたが、まだ当時は結構大変な作業でした。私の場合は、作成をしてくれる人が身近にいましたので、ありがたいことに比較的早い時期から開設することができました。
 今年7月には、ようやく自分自身でリニューアルに挑戦、更新を含めてすべて独りでできるようになりました。
 HP作成ソフトもずいぶん進化しました。いろんなサイトを閲覧すると、技法を駆使して、チカチカ、ピカピカ、賑やかな画面が多く見受けられます。しかし私の場合は駆使するだけの技も知識もありません。作成の方針は「シンプル&ビューティフル」。負け惜しみではありませんが、その方がなんだか飽きがこないように思えます。それに、なるべく余計なことに時間も取られたくないので、必要最低限の作業で済ませています。
 まだ、HP作成上の基本的なことで判らない部分が沢山あります。また、レイアウト上の美しさや、あるいは日本語の表記上、こういう風にしたいと思いつつ出来ないこともあります。一番の問題は、やはり縦書きが出来ないこと。それから、ルビが打てないこと。PDFファイルは容量が大きくて使えません。
 美しい日本語のための閲覧ソフトをだれか開発してくれないないものでしょうか(それは不可能なこと?)。 
 これからも、「光明の語り」に恥じない美しいホームページをめざして頑張ります(ほどほどに・・・・)。
 今後も、お時間がありましたら、是非当サイトにお立ち寄りください。
 どうぞよろしくお願いいたします。

(2007/10/30)
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川口和子さんの作品 その二



   
「龍乗観音」より  左:観音(部分)/右:龍神(部分)
(作者より頂いたプリント写真より)

 先に(10/05)ご紹介しました川口和子さんの作品。前回掲載いたしました画像は小さくて細かいところが分かりづらいので、もう少し拡大した部分画像でご紹介いたします。ただこの作品は、今回の作品展に出品したものではありません。画を描き始められた初期の頃(1994年頃?)の作品であったかと記憶しています(記憶違いかもしれません?)。以前、川口さんに頂いた写真から転載させていただきました。こんな画が突然描けるのですから、本当に驚くばかりです。
 無欲の人なればこそ、美の女神は微笑まん。そう、思い出しました。中国の芸術論、『礼記』の「楽記」に曰く、「芸術の本質は惜しみなく他に与えることであり、私欲をもたぬことである」。画壇とは何の関係もなく、芸術家としての気負いもありません。そもそも彼女の画業は、人に認めてもらいたいという「自己存在への執着」を出発点としません。私欲をもたぬこと、すなわち自我から解放されたとき、神降るという証でありましょうか。
 私の音楽活動の、いうならば「守り神」として、書斎にいつも立てかけてある写真です。

(2007/10/15)
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The Gents ザ・ジェンツの神韻

    
指揮者ペーター・ダイクストラ     ザ・ジェッツのメンバー  
(写真はペーター・ダイクストラのサイトより転載 http://www.peterdijkstra.nl/

 先日10月9日、NHKのBS_hi放送で、オランダの男性合唱団ザ・ジェンツの日本公演(墨田区のトリフォニーホール)録画を放映していました。十五六人の若者たち。指揮者はリーダーであるペーター・ダイクストラ。何気なくテレビのスイッチを入れたのですが、そのあまりのすばらしさに一瞬にして引き込まれ、番組の最後まで聴き入って(見入って)しまいました。
 なんと奥深いひびき、なんと自然なひびき、なんと優しいひびき、なんと美しいひびき。何処より来たり、何処へか去らん、その歌声の不思議さよ。シューベルトの歌、イギリス民謡、プーランクの宗教曲・・・・・。
 しかし、私が一番感動したのは、最後に歌った「舟歌」でした。日本の演歌、阿久悠作詞・浜圭介作曲の「舟歌」です。そう、八代亜紀が歌って大ヒットしたあの演歌です。それをちゃんと日本語で歌ったのです。私は涙をこぼしてしまいました。そして歌が終わった瞬間、思わずテレビに向かって拍手してしまいました。
 なぜ涙がこぼれたのか・・・・。それは、いまこうしてそのときの感動を思い起こしながら、敢えて言葉にすれば・・・・。ただ単に歌自体のすばらしさに対しての感動というより、音楽というものがまさに意味世界を超えた「ひびき」の世界にこそ、その実体や真価があるのだということの証であるような演奏に接して、ミューズの女神の祝福を受けたような気になったから・・・・。「演歌を聴いてミューズの女神?」と笑わないでください。本当に、そう感じたのですから。つまり、ジェンツのメンバーは、歌の根源世界を見事に捉えて、歌の生命そのものを響かせていたのであります。
 番組の途中、私は歌っている彼らの立ち姿を見ながら、さもありなんと一人頷きました。こうした最高の音楽が生み出されるもっとも重要な条件を再確認したのです。自然体であること。力が抜けていること。音楽は全身全霊で真剣に打ち込むべきものですが、決して頑張ってはいけません。頑張らないためには、技術と体力と気力が必要です。それがゆったりとした余裕を生みます。さればこそ神秘の天歌(あまうた)洩れ聴こゆ、何処より来たり、何処へか去らん、その歌声の不思議さよ。
 この若い指揮者、ペーター・ダイクストラなる人物の指導がきっとすばらしいに違いありません。何でも、彼はもうじきこの合唱団を去るとのこと。とても残念です。
あの神韻が失われないことを願うばかりです。

(2007/10/11)
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川口和子 作品展



龍乗観音
(DM葉書より転載) 

 
 今日、新宿・高島屋で開かれている「すべてのすべてありがとう〜川口和子 作品展」に行ってきました。失礼ながら、川口和子さんといってもご存じの方は少ないと思います。彼女はプロの画家ではありません。そして個展を開かれたのも今回が初めてです。彼女は、ご年配のごく普通の主婦の方です。かれこれ七年くらいのおつきあいをさせていただいていますが、そのお人柄が実に実にすばらしく大変尊敬申し上げている方です。私の琵琶のリサイタルにはいつも必ずお越しくださり、「光の語り」を高く評価してくださって大いに励まされています。
 さきほど普通と申しましたが、実は普通の方ではありません。輝くような優しい笑顔のお姿の中に「何者ぞ」と感じさせる、威厳と気品を備えられた方です。一見して「ただ者ではないと」得心させる光を放っておられるのです。彼女は画を誰かに習ったわけでもないし、独学したわけでもないのに、ある日ある時から突然、仏画や童画が描けるようになった不思議なかたです。それも半端な画ではありません。例えば上の龍神の画をご覧ください。何の画の訓練もしたことのない人が、急に絵筆をもちたくなって、初めからこのような画を描き始めたのです。世の中には、すごい方がおられるものです。ご本人ははっきりと「描かされている」と仰っています。彼女の画の前に立てば、天の韻が直観的にそのまま素直に表現されているとすぐにわかります。デッサン力がどうのこうの、構図がどうのこうのという上手い下手の次元ではなく、それを超えて、内なるものの偽らざる告白として、表出として、画が自ず現れているというべきでしょう。近代芸術の「自己表現」などという狭いワクを遙かに超越していますので、存在の核心がそのまま具現化され見るものを感動させずにはおられません。
 要するに、画や音楽などの芸術に限らず、「表されたもの」は「その人の意識の次元そのものである」というべきです。ですから、この画そのものが川口和子さんそのものというべきです。素人だとか玄人だとかは関係ありません。生命が生きているか、どれだけ高い韻を捉えているか、そしてもっとも大事なことはどれだけ感動があるか・・・・。高い韻の生命が躍動するとき、そこに感動が生まれ、身も心も浄められてゆくのでありましょう。それが「美の力」というものであります。ある意味、素人ゆえの、因習にとらわれない無垢な純粋さと、描かされることを歓びをもって素直に受けとめ、ひたすら感謝する全託の姿勢が、その美の力をもって、いよいよ大いに発動せしめているのであります。
*新宿高島屋10階、特設会場、10/3〜10/9。


(2007/10/05)