じゅげむ?


2008年 1期




雨上がりの桜


 

午前中の雨も昼過ぎにはあがった。
日課の散歩はいつものコースではなく、
久し振りに中野の新井薬師まで足を運んだ。
本堂前にはソメイヨシノの巨樹がある。
降り龍のように横にうねった太い幹。
苔むす老樹は毎年見事な花霞となって龍神の住み処となる。
今年の花は、ぼかし染めのような淡いピンクに染まって恥じらう趣。
春雨に濡れて花びらはすこし皺(しわ)んでいるが、
生命の色が心に沁みてすがしい。

小鳥が群がって花をついばむ。
喰いちぎられた花が花弁ごと、
くるくると回りながら、せわしなく一直線に落ちてくる。
地(つち)に散り敷く音が聴こえてきそう。
「小鳥よ、散るは風にまかせよ。
さくら花は風に舞うこそあはれなれ!」
と説くもむなし!
真っ青に晴れ渡った空に
小鳥は飛び去った。
ひとひらの花びらが羽音に驚いて
ひらひらと舞い散った。

(2008/03/31)

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大島桜と白椿

 新宿御苑に関東一の白木蓮の大樹があります。私は、白木蓮が大好きで、毎年、春を楽しみにしています。今日、やっと時間がとれて行ってきました。新宿御苑のサイトによれば、今年は14日に開花したということでしたので、もう咲き終わったかなと思いながら行ってみたのですが、案の定、大方散ってしまっており、残された花びらも茶色く朽ちていました。残念でした。
 それにしても、最近、カメラを手にした熟年の方々が増えました。今日も、新宿御苑はまるで写真撮影会の会場のような様相。ちょうど満開になっている桜の大樹には大勢が群がってパチリ、パチリと賑やかというか、騒々しいというか! 肝心の、花を愛でる心がどこかにいってしまって、ちっとも風情がないように思えるのですが・・・。要するに、生命と向き合って、静かに心を通わせるという余裕がないような、そんな気がしてさびしく感じます。
 私もデジカメを持って写真を撮っているので、人のことを言えた義理ではありませんが、そういう場面に出くわすと、何か急に気が萎えて写真を撮る気がしなくなります。へそ曲がり? 
 そんなわけで、木陰にひっそりと咲く花や、誰も写真を撮っていそうにない花に自然足が向いて、撮ってきたのが今日のショット2枚。
 若葉と一緒に可憐に咲いていた大島桜(だと思う?)。
 遊歩道の奥、木陰にきよらに咲いて、一遇を照らすかのように輝いていた白椿。
 白い花が好きです。

  

(2008/03/28)
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egword Universal存続を望む

 大変個人的なことですが、私はパソコン歴は約十年になります。いま世の中の大方はWindowsですが、始めた当初、仕事である琵琶の研究書の出版を考えていましたのでMacを選択しました。いまでこそWindowsのソフトが使えるようになってきましたが、そのころはDTPの世界はほとんどMacだったからです。
 私は琵琶の語りという仕事柄、文語文を書くことが多く、文章は基本的に縦書き、それからルビを多用します。場合によっては総ルビの文面も作成します。日本語ワープロといえば、マイクロソフト社のWordが有名です。ビジネスの基本アイテムのようにさえなっています。私も使っています。といいますか、使わざるをえません。世の中の文章を、Wordのファイルでもらうことが多からです。ところが、このWordというものは、日本語ソフトでありながら、ルビを多用する縦書き日本語ではほとんど使い物になりません。もともと日本語のために開発されたソフトではありませんから、基本的なシステムが美しい日本語(縦書き)の表示ということは全く考えていないようなのです。特にルビ打ちは最悪です。縦書きになると親文字からルビが異様に離れて、行間が狭い場合は、まるで隣の行の漢字にルビが付いているように見えます。おまけにルビをつけた行だけ行間が勝手に広がって、いちいち書式で行間調整を設定し直さなければなりません。以前のバージョンではいったんルビをつけた文字を選択してのポイント数を大きくすると、ルビ文字まで親文字と同じポイント数になるというような具合で、一言でいうなら「やってられないよ!」という代物です。しかし仕方なく、長年それを使わざるをえませんでした。
 その惨状を救ってくれたのが、二年前に発売になった、Macソフトの老舗エルゴソフト社(日本企業)のegword Universalというソフトでした。このワープロソフトは本当に画期的で、印刷業界のプロの組み版のルールを組み込んでいて、自動的にきれいな体裁にしてくれるし、プロでさえ難しいルビ打ちの決まりを、これまた自動的に適用してくれるのです。そうしたことが直感的にすぐマスターできる。しかも、必要とあればWord文書も読み込んでくれるし、逆にWord文書へも変換できるのです。ルビもちゃんと読み込んでくれます。新しい文書はすべてこのegword Universalで作成するようになりました。もちろん、まだまだ改良し熟成しなければならない余地はいくつもありますが、基本システムがすばらしいので全くそんなことは気になりません。私はマイクロソフト社の呪縛から解かれ、「すばらしい! これでもうワープロソフトに悩まなくてもいい」と大喜びでした。
 ところが、昨日、一通のメールがエルゴソフト社から届きました。このegword Universalの販売が中止、開発から撤退、サポートも後一年だけという発表がなされたのです。もう、ガッカリ・・・・大ショックです。こんなにすばらしいソフトがなくなる? それであのWordに戻らなければならない? ルビ機能の充実した一太郎が使えるWindowsへの移行しかないのだろうか? 昨日の夜は、暗い夜でした。たかだか日本語ワープロくらで悩まなくても、と言われる方も大勢いらっしゃるでしょう。しかし、日本語ですよ。自分の国の言葉と文章です。それが機能的でない、美しくしく書けないというのは大変おかしな事です。これは大げさでも何でもなく、文化そのものの根幹に関わる問題です。二十数年の時を経てやっとできあがった本物の日本語ワープロegword Universal。それがが無くなるということは日本文化の大損失です。
 そういえば、同じく昨日のニュースで、2010年度の常用漢字の新しい方針で、「虎」や「蝶」は日常的に使わないのでひらがなで書くように指導し常用漢字から外す・・・・という無謀で恐ろしい発表がありました。「国とは言語である」とは、司馬遼太郎の言葉であったでしょうか・・・。その言語を大事に育む環境を整えなければならないはずのその国が、その拠り所である言語をないがしろにし、勝手に手を加えダメにしてゆく。私にはそう思えてなりません。基本的に言葉というのは人為的に、国が規制を加えたりすべきではありません。言葉は時代と共に変化しますが、それは国民が自主的に選びとってゆくなかで自然に変化してゆくものだと思います。「虎」や「蝶」を漢字で書くか書かないかは、ひとりひとりが決める個人の問題です。大事なことは、使いたいならば使えるよう選択の余地を残す、豊かな言語環境を構築しておくことです。「虎」や「蝶」を教えなければ、読むにも読めない、書くにも書けなくなります。常用漢字から外すということは新聞などの公共出版物からその漢字が消えるということです。「蝶々夫人」は「ちょうちょう夫人」、変に思いませんか?
(この部分、私の早とちりでした。撤回削除いたします)
 おそらく、こういう問題に無頓着な方は、ワープロの問題も「書ければいいじゃん!」でお終いなのだと思いますが、私は気になって気になって仕方ありません。本来、国家の文化の根幹に関わる事は、経済性を抜きにして国こそが率先して開発すべきでありましょう。それを国がやらないから、民間企業が一生懸命になって良いものを作った、エルゴソフト社が頑張った、日本語のためのすばらしいワープロソフトを作った、それが経済的に発展が望めないので撤退する、何とも残念!無念! 国は、国の文化に大いに貢献するコンピューターソフトに対して、資金的援助をしてもいいくらいです。私はそう思います。
 私はエルゴソフト社には何ら関係のある人間ではありませんが、個人的には、このegword Universalが今後も継続してゆけるのであれば、ソフト購入代金の他に年会費を毎年払ってでも使い続けたい、そんな気持ちでいます。それくらい、いいソフトなんです。もったいない! 残念! egword Universal支援運動が起きないでしょうか。Mac党で同じ思いの方、いらっしませんか?

(2008/01/29)

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目的意識の大切さ


 弟子に琵琶を教えていていつも思うのは、目的意識の大切さです。こんなことがありました。
 琵琶の構えやバチ使いは、音の善し悪しを左右する重要な要素です。ですから私は、全身が映せる鏡を前に置いて、自分がどのような格好で弾いているかを確認しながら練習することを勧めています。ところがあるとき、ある弟子の悪い弾き癖がなかなか直らないので、
 「あなた、ちゃんと鏡を置いて練習しているの?」と尋ねたところ、
 「はい置いています」という。そこでさらに、
 「あっそう・・・それじゃあ、その鏡を見ながら練習しているの?」と聞くと、
 「いいえ、譜面を見ながら練習しています。」
 まるで落語の落ちのような笑い話です。
 何のために鏡を置いたのかという目的意識が欠落したために、鏡が鏡の役を果さない。
 実は、鏡を見ながら演奏するためには、歌も弾法も暗譜しなければならないわけです。そうすると、鏡を見るという行為そのものが「暗譜する」ということを嫌でも応でも意識させるので、曲を自然に覚え、相乗効果的にますます上達するのです。
 目的意識の有る無しは、事が成るか否かの分かれ道であります。人生もまた然りと云うべきか。

(2008/01/14)