じゅげむ?



2012年 1期

お地蔵さん

昨年、11月半ばに家内と二人で久しぶりの旅行に行きました。草津温泉に三泊です。
前に行った旅行が何時だったか思い出せないくらい久しぶりの旅行でした。
草津は標高が結構あります。11月中旬とはいえ最低気温は零度くらいに冷え込み、二日目の朝はうっすらと雪化粧でした。
有名な湯ノ花畑を見下ろすように光泉寺という真言宗のお寺があります。
急な石段を登って仁王門を潜ると境内。しかし佇まいが風情がなくて期待はずれ。
ところがふと本殿の右手に目を遣ると、何体ものお地蔵さんの姿が在り、
そのお顔が何とも言えぬ優しさを湛えているではありませんか。
朝日の木漏れ日に輝いて、何と美しいことでしょう。
いまでもそのお顔の微笑みが、暖かく懐かしく、
春日のように私の心を温めてくれているような気がします。

 *  *  *  *

旅行だけでなく、HPの更新も、「じゅげむ?」も、しばらくぶりです。
本年もどうぞよろしくお願い致します。
(2012.1.17)


(鶴城の写真の腕も上がったね!!・・・ひとりごと)

ピッティ宮殿の想い出

2010年の秋に、イタリアのパドヴァ、フィレンツェ、ローマと三ヶ所を巡り
ソロコンサートを開きましたが、
その中で一番印象に残っているのがフィレンツェでのコンサートです。
場所はピッティ宮殿の最上階、「白の間」と呼ばれているコンサートサロンでした。
有名なウフィツイ美術館とはアルノ河を隔ててヴァザーリ回廊で結ばれています。

何が印象に残ったのか・・・聴衆の一人であったあるシスターのこと。
そもそも、このイタリア演奏旅行は、
私の創作曲である《アッシジの聖フランチェスコ》を
イタリアの地でイタリア人に聴いてもらいたいという思いから実現したコンサートでした。
ですからもちろん演奏曲目の中心は《アッシジの聖フランチェスコ》です。
その最後の演目「第五段 ラ・ヴェルナの聖痕」を演奏し終わったときのこと、
会場は大きな拍手に包まれたのですが、
ひとりの年配のシスターが、立ち上がって身体を揺らし激しく手を叩きながら
「ブラヴォー! ブラヴォー!」と大きな声で何度も何度も叫んでいました。
いや何かイタリア語で他にも何か叫んでいました。
演奏は勿論、日本語です。
プログラムにはイタリア語の短い曲目解説はありましたが、詞章の訳詞はありません。
日本ではちょっとあり得ない事でした。
やっぱりここはイタリアだ、カトリックの本場だ、
フランチェスコの祖国だと強く実感した次第です。
「イタリアに来て良かった〜〜」と・・・・

「音楽に国境はない」というのはどうも嘘っぽいです。
国境は絶対にあります。乗り越えられない壁もあります。
しかし、演奏家の姿勢は必ず伝わります。
演奏で一番大事なことは、悦びと情熱と感動をもって演奏するということです。
その私の悦びと情熱と感動が、確かに伝わったんだと思います。
それが何よりも嬉しかったのです。

ところで私が制作したCDタイトルの中で、
もっとも売れないのが《アッシジの聖フランチェスコ》なんですね。
ほんとはすごいんだぞ〜〜〜フランチェスコの曲。
イタリアのシスターが感激したんだぞ。
(←本当はこれが一番言いたかった鶴城でした・・・)


(どなたか聴衆のお一人が演奏中にこっそりと撮った写真です)

広沢虎造「清水次郎長伝」

「呑みねぇ、呑みねぇ、おい呑みねぇ、寿司を食いねぇ、寿司を。もっとこっちへ寄んねぇ、江戸っ子だってなぁ」
「神田の生まれよ」
ご存知、浪曲、広沢虎造「清水次郎長伝」の「石松三十石船道中」の有名な台詞。
面白いですね。何度聴いても面白いです。
これまたどうして、「光の語り」の鶴城が任侠世界の清水次郎長を? とお思いの方もいらっしゃるかも知れませんが、
これは理屈じゃないんですね。仏教でいう業の世界、つまり四苦八苦の世界というのは、私たちの将に今の現実世界ですから、
多少時代が違っても誰にでも分かり易い。
ただ、こういう苦しみの世界を、如何にも苦しそうに深刻に語りすぎると、重くて辛くて、もういいや!となります。
ところがその世界をぐーっと深刻に落ち込まず、ユーモアをもってさらりと語る、それでいて時折、泣き節の哀愁が袖の涙を誘う・・それが広沢虎造の至芸ですね。
浄化されます。これが正攻法のカタルシスです。
ところで最近、1974年に発売になったPonyのカセットテープ16巻セットを手に入れました。戦後のスタジオ録音ですが、CD16巻で発売されているテイチクのスタジオ録音よりいいように感じました。内容も録音も。
特製の立派な木製ケースに入っています。たったの3000円でした。
実はカセットは音が、とても音がいいんです。特に倍音の複雑な余韻が一つの特徴を作っている邦楽にはとても合っているんです。三味線とか、琵琶とか、浪曲の声明のノドを締めて出す唸るような声とか。これを寺垣武開発の波動スピーカーで聴くと、その倍音がくっきりと浮き彫りになって感動が三倍くらいになります。それに74年製のカセットですから、たぶんデジタル編集はまったく介在していないのでは? 
それから同じ頃のレコードもついでに手に入れました。十二枚セット函入り、台詞冊子入り。ほとんど新品状態でした。これが530円なり。ヤフーオークションです。こういう掘り出し物を見つけるというのは、やっぱり楽しいですね・・・いやいや、これもまた琵琶語りの次なるステップへの準備なんです。
ま、それはいいとして、最近、MP3ファイルの音楽が氾濫してますが、これはもう音楽の「反乱」ではないでしょうか。琵琶の場合は特に話になりません。余韻がふにゃふにゃで不自然です。デジタル化するなら最低でも非圧縮のWAVにしないと駄目だと思います。
(2012.101.25)

春の朝

君の名を呼べば
しずごころなく散る花の
その花のごと
胸騒ぐ
春の心の・・・

な〜んていう季節がもうすぐです。
春になるといつも思い出す詩があります。
上田敏の訳詩集『海潮音』に載っている、
ロバート・ブラウニング「春の朝」。

===========
時は春、
日は朝(あした)
朝は七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這い、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事もなし。
===========

残念ながら世界と時代は、
平穏からはいよいよ懸け離れゆくばかりです。

これからますます厳しい状況に入ってゆくのでしょうね。
しかし「神、そらに知ろしめす」とは永遠不滅の絶対普遍の真理でありましょう。
わたしはそこに、希望の光をいつも見ています。


「神の摂理」いいかえれば「宇宙の摂理」。
それは滅ぶものは滅び行くという非情の世界の原理。
生成流転の大法則であります。

しかし人間にとっては、それだけではちょっと窮屈です。
そこで神さまは、すばらしい楽しみを与えて下さいました。

有情の世界です。
美、そして芸術はその最高の歓びでありましょう。

「春の朝」の詩は、
静かで平穏な春の朝の自然の美を讃えながら、

その背後に静謐で厳しい宇宙の摂理を暗示しているような気がします。
美とは何かしら死に対峙する覚悟や緊張感の、
その危うさの中に成立しているような気がします。
そこに生まれる感情は、決して退廃的で厭世的な憂いではありません。
形あるものは何時かは滅ぶという諸行無常の超越感です。
非情と有情を極めた、
その超越感の、
澄み切った感覚が、
この詩ににはあるような気がします。
もちろん、上田敏の訳が素晴らしいんですね。

(2012.02.02)




天音浄地

私が30代半ばの頃だったろうか、
知人に誘われて、
ある宗教法人の幹部の方とお会いする機会があった。
その方は大変無口な方で、
私が何か質問しなければほとんど何も喋らない。
表情も変えない。
喋っても一言、二言しか発しない。
少し面食らったが、恐らくその方は、
私という肉体人間ではなく、何処か奥深くの、
謂うならば私の本体のような存在と対峙しておられたのではないかと思う。

その方は詩集を出されていた。
私はそれを買い求めて持参して来ていた。
その詩集を差しだし、サインを頂きたい旨申し出た。
するとお名前の他に、何やら一言書き添えておられる。
「天音浄地」とあった。
「これがあなたの天命です」とおもむろに語り始めた。
天のひびきをこの地上界に降ろし地を浄める、
それが私の役割だという。
天命だという。
私は特に驚かなかった。
不思議なことに何かしら当然の如く得心したのだ。
私が求めていたものはそういう音楽だった。
それを四文字で的確に表してくださった。
そう思った。
それから何年か経って、
私は「光の語り」宣言をして、
創作に没頭するようになる。

「天音浄地」
これは特別なことではない。
音楽の本来の姿である。
その働きである。
それを大それた事と思う人もいるかも知れない。
しかし、人は自分が求め願う通りの姿になる。
これは道理である。
私が求める音楽は天にしかない。
私はひたすら天に求める。
天への道を求める。
天に焦がれる。
ただ、天に繋がるためには自らの魂を磨かねばならぬ。
己の霊格に見合う場所にしか繋がらないからである。
ゆえに音楽は自ずから人間修行に他ならない。
音楽は畢竟、
人格である。
人生である。

そう思いつつ自らを振り返れば、
至らない所ばかりだ。
欲に塗れた自分がある。
しかし私はそれに決して目を瞑
(つむ)るわけではないが、
「自分は駄目な人間です」などと、
卑下したり、謙遜などしない。
そういう姿は「消えてゆく姿」ととらえ、
全て神さまにお返しすることにしている。
そして神と一体なる自己を宜
(の)りだす。
それが私にとっての祈りである。
祈りとは個人の現世利益的な願望ではない。
神と一体なる自己本源の姿に還ることである。
神と一体になって働くことである。
その姿に日々思いを馳せる。

地を浄めるのは私ではない。
神である。
私はその神の器である。
ゆえに私は威厳と確信をもって宣言する。
天音浄地!
天のひびきをもってこの地上界を浄めると。
これが私の「光の語り」の意味である。
「光の語り」は、
祈りである。
天地一体の祈りである。

(2012.02.11)



(撮影:白根神社境内にて)


神性

久しぶりに後藤静香(ごとう・せいこう)の詩集『権威』を繙く。
ぱっと開いて最初に飛び込んできた詩篇。
「神性」
その言葉に改めて心奮い立つ。


*******
神性

神性は誰にでもひらめく。
只其の幻の瞬間にして消滅するを悲しむ。
神性が隠るれば、すぐに獣性が現はれる。
神的傾向をもつか、
獣的傾向をもつか、
聖賢と凡俗の分るゝところ、
そこに人間の努力がある。
清い気高い憧れをもって、
神に肖
(に)るまで進まうでは無いか。

*******

まことに、求めざる者には無縁の言葉である。
しかし、求める者には勇気の言葉だ。

音楽にとって一番大切なことは、
美しい音への憧れを持つことである。
そう、「清い気高い憧れ」がなければ、
音は訪れない。
訪れとは「音づれ」。

音は天からやってくる。
すなわち神性の美である。
その美を顕すことが演奏である。
ゆえに演奏とは神性顕現である。
神に肖
(に)るのである。

私は強く希求する。
琵琶楽が、
神性顕現の楽
(がく)たらんことを!



(2012.02.12)

美の伝道者たれ

美 の 伝 道 者 た れ

真・善・美がある。
真なるものは美である。
善なるものは美である。
美ならざるもので真はなく善もない。
美を求むれば自ずから真に至り、
美を求むれば自ずから善に至る。
美はすべての真理の規範である。
美を根拠とせず神は何も創らない。
すなわち美は愛そのものである。
宇宙の原理である。
美を求めよ。
美の伝道者たれ。

苦しいか、
ならば美を求めよ。
悲しいか、
ならば美を求めよ。
争うか、
ならば美を求めよ。
妬ましいか、
ならば美を求めよ。

美を求める心に、
苦しみも、悲しみも、争いも、嫉みもない。
美は神の大いなる恵みである。
美を求めるほどに、
魂は澄み渡る。
美を求めるほどに、
魂は浄まる。
美を求めるほどに、
神は近づく。
美を求めよ。
美の伝道者たれ。

我は己に鞭打つ、
美を求めよ、
美の伝道者たれ。


(2012.02.13)




野良猫のブータロウ

お前は、
そう呼ばれたら不本意かも知れないけれど、

親愛を込めて呼ばせてもらう。

見かけはブーっとしているけれど、
何となく愛嬌のある顔、
野良猫ブータロウ。

最近すっかりご無沙汰しているけれど、
元気でいるかい。
今年の冬はホントに寒いから、
あの屋根の上の日向ぼっこも、
そんなに暖かくなかろうに。

ブータロウ、
元気にしてるかい。
いつだったか、
お前と初めてあった日、
もう二年くらい前のこと。
散歩の途中、
車のボンネットの上で、
日向ぼっこしていたね。
僕がなんとなしに「ブータロウ」って呼ぶと、
ニャーンと言いながらすり寄って来て、
そのデンとした鼻を僕の手になんども擦りつけた。
ひやっと冷たい鼻水が僕の手について・・・・
思わずそぉーっと嗅いでみたら、
「う〜〜〜、なんだこりゃ〜〜〜
臭〜〜〜ぁ〜〜い!」
あまりの悪臭に僕は目眩がしてのけぞった。

そんな事は、
知ってか知らずか、
おまえは更なる愛嬌を振りまいて、
足もとに絡みついてくる。
僕はたまらず、
その場から逃げ去った。

ゴメンよ。
こっちから声を掛けたのにね。
でもそれから、
すぐ近くの公園で手を洗ったけど、
匂いは消えなかった。
一体、お前の鼻水は、
どんな調合をすればあんなに強烈なんだい。
驚異のマーキング術!

それからというもの、
散歩でお前の縄張りを通るたびに、
僕は恐る恐るブータローの姿を探した。
階段に居たり、瓦屋根の上に居たり、
お前の周りにはゆったりとした時が流れていた。
でも僕は遠慮がちに、
「よっ、ブータロー」と、
一声掛けるだけで、
そそくさと立ち去った。

あれから時が経って、
やっぱりお前の事が忘れられない。
あんなに臭い思いをしたのに・・・・

でも最近、お前の姿はない。
ブータロウ、
元気にしてるかい。
ブータロウ、
お前もずいぶん年だったからね。
今年の冬はさぞ寒かろー。

ブータロウ、
何処にいるんだい。
元気にしてるかい。
ね、ブータロウ。

*****



二年くらい前の、ある冬の日のブータロー。
瓦屋根の上で日向ぼっこするの図。
ところで勝手にブータローなんて呼んでたけど、オス? メス?
もしメスだったら、ブータロウなんて呼んで、
ホントに失礼でした。
この場を借りてお詫び申し上げます。
ね、ブータロー。

負けるもんか

最近、家内の美智子が描いた画です。
画題を私が付けました。

「負けるもんか」



(2012.02.23)

天に従って生きる

 父が亡くなってもうすぐ一年が経つ。父は、「正直・誠実」という言葉が、そのまま人間に成ったような人だった。父の一生は「バカ正直のクソまじめ」と云うに尽きる。私は、その正直さや誠実さが好きであった。人は表向きは正直さや誠実さを讃える。しかし、世の中は「バカ正直のクソまじめ」を歓迎するとは限らない。父は、デパートマンで重役にまでなったが、その生真面目な性格ゆえに煙たがれ社内では孤立していたように記憶する。結果、人が敬遠する大変な事ばかりを背負い込み苦労した。人に裏切られ騙され憂き目をみた。父は、それでも「バカ正直のクソまじめ」を貫き通した。見事な生き方だったと思う。
 父の性格は、祖父のそれを受け継いでいる。祖父もまた、正義と徳の人であった。財力のあった祖父は人を蔭で扶けた。還ってくる当てもないお金を困った人に貸し与えていたと聞く。祖父が亡くなったとき、私はその葬式には大学受験で出られなかったが、無名の大勢の人々が、その死を悲しみ、徳を偲んで参集したと聞く。借りたお金をついに返せなかったと詫びた人もいたという。「悪いことをするな。人に迷惑を掛けるな」。祖父を想うと、この言葉が浮かぶ。祖父の風貌からは、自ずとその清廉潔白の風韻が漂っていて実に立派であった。その祖父あって父がある。
 父も祖父も、本当に立派だったと思うのは、黙って行為で示し続けたことだ。これは生中にできることではない。信念がなければできない。神仏を敬い畏れる心がなければできない。
 父も祖父も、まことに天に従って生きた人だったと思う。陰徳を積んだ人間には、奥深い輝きと言いしれぬ威厳がある。
 そんな父と祖父を持ったことを誇りに思う。

(2012.02.28)

牧水の歌

 もう十年以上も前に創った《旅人》という曲がある。若山牧水の短歌四首を撰んで連詠という形で琵琶の音にのせて詠う。牧水の歌は朗唱性が豊かなものが多い。琵琶歌を歌っているせいもあるが、私は、声に出して歌える歌が好きだ。
 誰でも知っている次の二首、

   幾山河越えさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく
   白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 無限の空間、永遠を感じさせる時の流れ、豊かな情景と叙情性。琵琶歌にするには格好の歌。

   海の声断えむとしてはまた起こる地に人は生
(あ)れまた人を生む

 これも最も好きな歌の一つ。生命の鼓動が聴こえてきそうな実にダイナミックな歌。自然と人の営為の実体を見事に捉えた歌だと思う。

   山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇
(くち)を君

 これは実に大らかで大胆な恋歌。情熱が昇華された陶酔の瞬間。そのまま永遠に時が止まるかのような感覚。まるで良く知っている映画のシーンのように強烈なイメージを喚起する。
 牧水は私の郷里でもある宮崎の生まれ。これはやはり、その緑と海と太陽の穏やかな自然が育んだ南国の開放性であろうか。
 以上四首は歌集『別離』に収められているが、先日、青空文庫で牧水の著書を見ていたら『なまけ者と雨』という短い随筆があることを知った。その中に詠われている一首に強く心ひかれた。

   あららかにわがたましひを打つごときこの夜の雨を聴けばなほ降る

 音が聴こえてくる。雨の音が。その激しい雨音に打たれながら、私は、なにかしら湧き上がってくる強い感動にふるえ、しばし黙した。
 確かに、打たれているのは、私の魂。雨は肌
(はだえ)を濡らすようで、魂の底に染みいる。

   ゆくりなく雨に降らるゝ如くにて君がひとみはわれを奪ひぬ  (鶴城)

(2012.03.06)

列島おんなのうた

師匠・鶴田錦史先生の晩年の作品に《まぼろしの星》がある。
遣唐使、阿倍仲麻呂を描いた作品である。作詞は深尾須磨子。
ちょうど一年くらい前、この作品を研究する過程で深尾須磨子のある詩集に出遭った。
『列島おんなのうた』(昭和47年刊)である。


(1972年、初版、紀伊國屋書店)

この詩集名は、冒頭に収められた同名の詩篇に拠る。
この詩を一読したとき、私は、なんと言って良いのだろうか、
原初の生命エネルギーのようなものに打ちのめされた。
万葉のおおらかさを遙かに超えた、
神話の世界のような初発のエネルギー。
国産みの壮大な躍動感。
アメノウズメのような太古のエロス。

***********

列島おんなのうた

大自然の偶像教徒
太陽・風・水・土・
花・草木・鳥・毛物……
おんなのほしい夢 不自由なく
深部にすみれのフェロモン分泌やまず
これよ これよ
これが列島おんなやよ

やまつもの たなつもの
食らいに食らい
島々を生み
しゃっきりのアドニスを
まゆみの木に見たて
アスタテのようにみごもる
これよ これよ
これが列島おんなやよ

数百億の細胞ひとくるみの体内では
貪欲な繁殖細胞の内ゲバ絶えず
栄養横取り
食らうは 食らうは
食らうことは 生むことのシノニム

雪白のシーツに
創世のともし火ながれ
茉莉花かおり
はずむ待つ夜のこころに
金星とくべつ青く
見るみる何十万キロ 距離縮まり
膝割り 胸はだけ
ものみないだき いだかれ
やがて痙攣 オルガスム
これよ これよ
これが列島おんなやよ
山に千年 海に千年
ああ 宇宙広大無辺
寝たいとき 山と寝る
濡れたいとき 川と濡れる
これよ これよ
これが列島おんなやよ

**************

以来、この詩を何度も読み返している。
なぜこの詩がこんなにも私を惹きつけるのか。
この詩が私の内部に引き起こす真っ赤な感情の由縁は何か。
私の中にも確かにあるマグマのような、
この原初的エネルギーの爆発。
真偽を超え、
善悪を超え、
美醜すら超えた、
生命そのものの原理か。

(2012.03.07)

いのちをこそ

前回、深尾須磨子の〈列島おんなのうた〉のことを書いた。
もうひとつ、ふかく感動した詩がある。
〈いのちをこそ〉という一篇。
〈列島おんなのうた〉が「母性のエロス」なら、
この詩は「母性の愛」とでも言うべきか。
強くしなやかな愛。
おおどかなる生命賛歌。

*************

いのちをこそ

風が運ぶ豊年太鼓の音を
永遠の 万人の喜びにしなければならぬ
人類はもはや永遠に
野獣の道を選んではならぬ───
新たに込みあげる不安といのりに
気力をしぼり
わが子をかきいだく母の思いよ
波紋となって世界にのびてゆけ
幼な子のひとみが映す空の青 海の青
その空と海とをけがしてはならぬゆえに
平和の潮よ 母の心から
距離をこえ 一切の障害をこえて
まんまんと宇宙に満ちてゆけ

しみじみ通う母の体温と 子の体温と
ああ かけがえのない
いのちをこそ いのちをこそ
そのいのちとかけがえの
金貨の山が何になる
案山子
(かかし)の弓矢が何になる
失われた千万の
帰らぬいのちを嘆きかえし
泣きかえす千万の母の苦悩
その苦悩も新たに
わが子をかきいだく母のねがいよ
結集して平和の楯になれ

ああ 風の中で
豊年太鼓が鳴っている
鳴っている

  ── 一九五五・八・一〇・敗戦を迎えて ──

**************

母性のエロスと愛、
それを臆することなく描ききる、
そこに詩人・深尾須磨子の真骨頂があるように思える。

(2012.03.09)

高村光太郎の詩二篇

彫刻家・高村光太郎の詩といえば、
有名な〈道程〉があるが、
次の二つの短い詩篇が心につよく響いて忘れがたい。
いや、詩といってよいのか、
箴言のような言葉。
ふたつともに、僅か二行の詩。
「芸術とは何か」とか、
「芸術家とは」という問への答えのような、
そんな二篇。
創作の要諦であり、
道に迷ったときの我が標
(しるべ)である。

***********

現実

感激の枝葉を刈れ
感動の根をおさえろ



詩人

いくら目隠をされても己は向く方へ向く
いくら廻されても針は天極をさす

***********

(2012.03.17)

春の嵐

春の嵐の夜に・・・・

あららかに吹きすさぶなる夜嵐の音にまどふて春ふかみゆく

ひと恋し夜半
(よわ)の目覚めの春あらし吹き過ぎゆきて心乱るゝ

(2012.03.31)