じゅげむ?


2008年 3期




おしろい花

暮れどきになると、
道端におしろい花が咲いて夕風に匂い立つ。
あか、しろ、きいろ、まだら色。
一つの茎に違った色の花をつけることも珍しくない。

子供の頃、その花を摘んで、
花ラッパにして遊んだ。
花の根元をつまんで蕊(しべ)ごと引き抜くと、
小さなラッパのようになる。
それを口にくわえて吹くと、
篳篥のような笛になる。
草笛という言葉はあるが、
花笛(はなぶえ)という言葉はどうもないようだ。
「鼻笛をふく」という言い方があるが、
こちらは「花笛」。



妻は都会の繁華街の育ちで、
その遊びを知らないという。
それであるときプ〜〜〜と吹いて見せたら、
夕方の散歩道、花笛を楽しみにするようになった。
私も一緒に「プ〜〜〜〜、プ〜〜〜〜」と吹き鳴らしながら歩く。

道端で遊んでいた子供らが、
聞きなれぬ音に驚いて、いっせいにこちらを見る。
口をあんぐり空けている。
二人で顔を見合わせケラケラと笑った。

そういえば近ごろ、子供たちが吹いている姿を、
ついぞ見たことがない。

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日暮れなば おしろい花を 摘みて吹け

おしろい花 競ひ吹きつつ 夕散歩

おしろい花 吹けばたのしき 花ラッパ

おしろい花 赤吹け白吹け 黄も吹け


(2008/08/29)

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ヒグラシ

この夏、梅雨が明けて蝉がなき始めたころ、
日課の散歩の、いつものコースを変えて歩いてみた。
偶然に、自然林が残っている一角を見つけた。
杉並区の保護樹林に指定されているらしい。
自然林といっても、ほとんどがすでに宅地に変わっていて
わずかな広さしか遺っていない。

しかし、ちょっと驚いたのは、蝉の声であった。
都会の住宅街の真ん中、
他の場所はどこでも、鳴いているのは大方アブラゼミやクマゼミ、ニーニーゼミ。
ところが、そこだけはヒグラシが大勢をしめていた。
カナカナカナ・・・・・
カナカナカナ・・・・・

涼しげな声、そしてどこか郷愁を誘うひびき。
昔の懐かしい思い出が引き出されるような不思議な声。

夕暮れどきの薄暗い森下かげ。
その一角だけ、時の流れが異なるかのような感覚に襲われた。

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ヒグラシの 声に時さへ 迷ふたり

(2008/08/21)

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「日の丸」と「君が代」

オリンピックたけなわ。
表彰式で掲げられる国旗と流れる国歌。
その様子を見聞きしながらあらためて感じたのは、
日本の日の丸と国歌の何ともいえぬ美しさでした。
昨今、公立の学校で、君が代斉唱や国旗掲揚に異を唱える先生方がおられますが、
私は、正直に素直に、そのすばらしさに心打たれ感動します。

「君が代」は、我が薩摩琵琶の琵琶歌が元になって作られたわけですが、
それで身びいきに感じるのではありません。
心をまっさらにしてきいてごらんなさい。
何とも厳かで、安らかで、和やかで、心しずまる・・・・
調和のひびきに充ちた旋律ではありませんか。
まるで波静かな大海原に朝日が昇るようなさやけさ、すがすがしさ。
日の丸も純粋に究極の美しさだと感じます。
一言でいうなら、
日の丸も、君が代も「和」のひびき。

かつての戦争の記憶が邪魔をして、
どうしても軍国主義や戦争と結びついてしまうというならば、
それはそれで仕方ありませんけど。

しかし、
美しいものは美しい。
すばらしいものはすばらしい。
常識や知識や経験、あるいは思想にとらわれず、
本質を素直に正直に感じる心。
それが一番大切なことだと思います。



先日
『夜の心』と題する詩で、
「美を求めなければ/真なるも活
()きず/善なるも窮屈だ」と記しましたが、
美を求め、素直に感じられる心は、
すなわち芸術の心でもある。
私はそう思います。
子供のような、
赤子のような気持ちになって、
モノを見聞きする。
そうすると世界は歓びと美しさに満ちている!

(2008/08/13)
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光を語りたい

昨年ホームページを再出発させましたが、
その際、心がけたことがひとつあります。

以前「イメージの窓」のコーナーで
「感謝の心を」のなかに記した言葉、
「美しいことを感じ、美しいことを見、美しいことを想い、
美しい生命のひびきを語らなければいけない。」
ただその一点であります。

それは、自分自身や、社会の現実から目をそらすことでは決してありません。
現実の、どんな醜さや悲惨さや嫌なこと、一見理不尽な不幸に直面しようと、
けっして世の中を恨んだり、批判非難ばかりしたり、悲観的になったり、投げやりになったりせず、
神さまから戴いたこの命を精一杯ひかり輝かせたい、
私は、ただひたすら、
そう願っているのです。

すべては己自身の心の問題です。
己の心がそのまま現実となって顕れていると観ずればこそ、
己は真に鍛えられるのではないでしょうか。
ですから世の中や他人のことはひとまず置いて、
己自身の心に目を向けるべきだとおもうのです。



音楽は、自分の心に描かれた世界そのものです。
音とは、自分の心に描いたイメージそのものです。
イメージされないもの、意識されないものは、
決して音となって顕れることはありません。
このことは、音楽に限らず、
すべてこの世の中の絶対的な原理でもあります。

だから私は、光をイメージするのです。
光を感じ、光を見、光を想い、光を語るのです。
光を顕したいから。
光を顕すために。

(2008/07/23)

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慈愛の光

これは画家・民惠美子(たみ・えみこ)さんの絵。
ちょうどカルタくらいの小さなカードに、
手書きされています。
慈母観音さまのように、
実に大きな慈愛の光を放っているではありませんか。
こころなごみ、やすらかになり、幸せになります。
もう半年以上毎日眺めていていますが、
見飽きるということがありません。
小さな絵が放つ実に大いなる力。

さーっと描く一筆の一瞬一瞬に、
きっと作者は、
目映いばかりの光に包まれているに違いありません。

さわやかにして深く、
軽やかにして明けし。
大いなること朝の光のごとし。
光の画家、民惠美子さん。



カードに添えられた作者の言葉

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「私は あなた」
「赤ちゃんは みんなにだっこされ みんなは 地球にだっこされ」

(2008/07/14)

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明治天皇と昭憲皇太后の御歌

時折、家内と二人して明治神宮に行く。
西参道に広がる草はらに寝そべって、ゆったりとした時間を過ごすためだ。
境内には一の鳥居から入る。
南参道の長い玉砂利を踏みしだきながら二の大鳥居を潜ってゆく。
まずは本殿で参拝。
そのあと本殿西門を出でて宝物殿の方角にむかう。




その門を出たすぐ右手に手水場がある。
そこには必ず明治天皇と昭憲皇太后の御歌が掲げられている。
大きな黒い札板に白筆で手書きされて月ごとに掛け替えられている。
七月の選歌は、

あつしとて とふ人もなき日ざかりは
にはの清水を 友とこそすれ
(明治天皇)

海ぎはの あしのひとむらしげりけり
蟹とる子らの かげみえぬまで
(昭憲皇太后)

手水場のまえに立ち止まってその歌をくちずさむ。
大きくゆたかな、やわらかな心持ちになる。
自然と、神さまと、そして人と・・・
日常の何気ないことなかにこそ、
しずかな深い時がながれているのだと、
いつも気づかされる。

杜の木かげに
歌の余韻がゆれて、
心もゆれて、
ひっそりとした西参道の杜をゆらゆら逍遥する。
やがてひろがる境内の草はら。

(まろ)べよ。
天をいだけよ。
われあり。
自然と、
神さまと、
ともなるいのち。

(2008/07/13)

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アジサイ








 散歩のたびに気になっているアジサイがある。
いつも思わず立ち止まってしまう。
なんという名前のアジサイであろうか。
花びらが、ミニチュアのお椀のように
まんまるく、肉厚で、小さい。
ときがたつとしだいに大きくひろがってゆく。
もう盛りはすぎてしまったが、
今日も鮮やかな青紫が、
梅雨ぞらに向かって輝きを放っていた。

「夏が来るまでは、私が空のあお!」

群れ咲く花の、
そのざんざめきに、
わたしはいつも呼び止められる。

(2008/07/01)