OKA 僕はリクエストQJという美容師向けの求人雑誌で10年以上、巻頭インタビュー記事を続けてきました。のべで120人以上の美容師の話を聞いて、ほんとうにみんなおもしろい、興味深い人々だと実感していました。今までは紙の媒体を通して人を表現してきたわけですが、今回のような企画の中で生で表現できる機会をこれからも持てたらうれしいですね。

今日は神宮外苑の花火大会で見物人がわんさと青山に来ているけど、この骨董通りの片隅にこれだけの人が話を聞きに来ている。みなさんはさすがです。

今日は第1回目として、私の心のガソリンである酒とタバコを傍らに、EIJIに話を聞きます。

岡 高志 フリーランスライター  
1958年生まれ、早稲田大学教育学部中退。91年、美容師のための総合情報誌「Re-QuestQJ」創刊に参加、現在まで巻頭インタビュー記事を担当。すでに連載120回を突破している。その中で20人をピックアップし、まとめた「カリスマ美容師列伝」(光文社刊)その他、ロックバンド ・リンドバーグの「リトルウィング」(ソニーマガジンズ刊)やラクビ−選手等、著名人の人物ルポを数多くてがける。

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OKA EIJIさんは美容師になる前はオートレーサーになりたかったんでしょ。どんなところが魅力だったの。

EIJI 子供のころよく父親に連れられてレース場へ行ったんです。当時のレース場はアスファルトじゃなくて土だった。バイクが爆音と土煙をまきちらしながら走るのがかっこよかった。転倒すれば死にます。でもその天国と地獄を感じながら走るのがまた魅力だったというか。

OKA けっきょくレーサーになるのは、諦めるわけですよね、足のけがで。もしレーサーになっていたらどうなっていたと思う?

EIJI 死んでいるか、がっぽり稼いでいるか、どっちかでしょうね。

OKA 博多中洲の増江美智子さんの店で美容師を志すわけだけど、なんで美容師だったんですか?

EIJI たまたま先輩に美容師がいたから。女の子がいっぱいいたから。そんな軽いノリでしたよ。

OKA 当時どんな毎日でした。いまやNewYorkのEIJIだから、会場の皆さんも興味あると思うけど。

EIJI 1年ぐらいは美容師の仕事自体には興味がなかったみたいですね。最初は誰でもそうだと思うけど、「あれ持ってこい、これやれ」の使いぱしりばかりしてましたから。仕事らしい仕事はシャンプーぐらいで。

OKA お店は歓楽街にあったからいろいろなお客さんがいたでしょ。

EIJI 芸者さん、バーのママ、ホステスみたいな人が中心でしたね。お客様を「○○お姉様」と呼ばなければいけないんです。怖かったですよー、シャンプーするにもへたすると怒られるしね。「お姉さま」の怖い客が来ると先輩たちが「お前やれ」って。だから自然にシャンプーうまくなっちゃって。

OKA かんじんのカットの技術の方の進歩はどうだったの? 増江さんは第1回目の世界大会代表だからいろいろ学ぶところが多かったでしょう。

EIJI 先生は東京から来る先生より上手かった。ただ、僕ははじめて自分が不器用だと気がつきましたね。ワインディング、ピンカール、できると思っていたことができない。あとから入って来たインターンができるのにね。先生もあきれて、とにかく英治は閉店後毎日練習しなさいってことになって。毎日9時から12時まで冷暖房無しのサロンで練習してた。みんなはディスコかなんかで遊んでいるのにね。しかも朝は7時30分から朝礼があったから、はじめの6ヶ月はほんと死にそうでした。

OKA 美容師として「できる」という自信はいつからもてるようになったの。

EIJI  結局、そういう生活が続いて髪の毛にのめり込んでから、ですかね。でもそれでも店内でやるコンクールでは3位どまりで。僕の方がデザインが新しいと思っても「面がきたない」とか言われてね。
そうするとまたきれいにするために店が終わってから毎日練習する、こんなくり返し。

OKA それから22才のとき博多からアメリカ、アトランティックシティーのサム・カペルのサロンに行くわけだけど、きっかけは?

EIJI 僕は先輩・後輩という人間関係が苦痛だったんでしょうね。なんか「もうこんなところにいたくない」という気持ちが強くなっちゃって。別にヨーロッパでもどこでもよかったんです。つてがあってたまたまアメリカでした。

OKA まだ円高前の時期で飛行機代もばかにならなかったと思うけど、渡航費用はどうやって。

EIJI お金を使わないで150万貯金して。彼女や先輩に「お金がない」って言っておごってもらってました。

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OKA 念願かなって、アトランティックシティに着いた。どんな感じでした。

EIJI 夏の陽がぎらぎらしてて、空港へはでっかいオープンカーで上半身裸の男が迎えに来た。こっちは変なかっこじゃいけないと先生に言われてたからスポーツ刈りでしっかり身仕度してるのにね。「お前がEIJIか」って。ちょっとやばいところに来たかなと思いましたよ。福岡から出発する時「水には注意しろ。生水は飲むな」と言われてたから、暑いのに水も飲めずのどはカラカラ。やっと口にできたのはその日の夜、ホテルのコーラ。たてつづけに3本飲みましたよ。

OKA 最終的には、そのサロンではそれなりの待遇をうけていたんでしょ。たくさん客をこなして。普通だったら、それでいいじゃないかと思うんだけど。そのままそこで自分のサロンを出してもいいし。でもあなたはそうせずに、ニューヨークに行った。

EIJI 1日に30人。15分で切って後の15分でセット。毎日この調子でやってると何も考える必要がなくなるんですよ。もう機械の流れ作業みたいになる。べつに自分でなくてもいいなと思ったんですよね。
基本的に日本人ってうまく切るんです。だから大した技術がなくても店だして成功している日本人も、けっこういますよ。僕の場合は、そういうことでは欲求がみたされなかったというか。探し物があったというか。

OKA もっとうまくなりたいという欲求ね。でもなぜJOHN SAHAGだったんですか。そこに探し物はありましたか?

EIJI 雑誌で見てJOHNのスタイルが好きだったんですよ。ただ、雑誌の仕事を中心にしている人は見栄えよくセットできてもカットが下手という人ばかりだから、JOHNもカット技術は下手だろうと思ってたんです。でも、実際に彼のカットをみたら全然違った。彼はどのスタイリストよりすごい技術を持っていた。

OKA JOHN SAHAGがサロンを出すときになぜアシスタントから始めたんですか。スタイリストで通用しただろうに。

EIJI 自分は10年のキャリアがあるけど、1年間は近くで仕事が見たいからアシスタントでいいって彼に言ったんです。でも彼以外はみんな上手くなかった。みんな有名店で働いてたバリバリのスタイリストばかりだったけど。あまり勉強もしないし。仕事が終わるとさっさと帰る。

OKA オープンしてしばらくしてスタイリストになりましたね。

EIJI 数カ月後に、はじめての勉強会があったんです。 僕が顔のまわりまでドライカットで切ったら、みんなびっくりして、JOHNが「明日からスタイリストになれ」って。すぐにマネジメントまで任されました。

OKA それまでドライカットをJOHNから習ってたわけ?

EIJI アシスタントをしながら毎日JOHNの仕事を見て、店が終わったら一人で練習してたんです。博多の時代と同じように毎日ね。他のスタッフと違ってJOHNもいつも遅くまで仕事したり練習したりしてました。

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OKA お、もうこんな時間になっちゃった。(予定時間をかなり過ぎていた)
カットされた髪を見ると、そのカットをしたスタイリストの人格がわかるんですって?

EIJI ドライカットって人の心の中がもろに出るですよ。だから作品を見ると、その人の心の状態が良かったのか悪かったのか、穏やかだったか荒れていたか、全部分かりますよ。だからサロンでも毎日のできが違うんです。もちろんお客さまは満足してるんですけど、スタイリストとして不満なことも起きてきます。だから、突き詰めるとドライカットは、それぞれのスタイリストが同じものを作ろうとしても、同じものは作れないんですよね。

OKA それはつまり自分がやったものを人にあてはめても意味がないということ?

EIJI そういう一面もあるかも。ちょっと禅のようになってしまうけど、ドライカットって髪をきることで、嫌でも自分と対峙することになるんですよね。だから満足することはあり得ないんです。周りからいくら上手いと言われたとしても僕も満足できないんですよね。もっとうまくなって、もっときれいな作品がつくりたい。
僕がなぜドライカットを勧めるのかというと、美しい作品ができることと同時に、自分が冷静に見えてくるからなんです。最近美容師を志す人が多いけれど、だれでも技術的な壁にぶつかるはず。若い人は早めに始めてみるといいと思います。

OKA 時間がなくて強引な構成になりましたが、おつきあいいただきありがとうございました。
次回もよろしく。