ごくたま昨日日記 in April, 2001

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Apr.11,2001 (Wed)

[memo]東野圭吾作品について・その2

ええっと、どこまで書きましたかね。あらかた書いちゃった気もするな。だったら続きは明日とか書くな >自分。

私の思う東野圭吾作品の素晴らしさのもう一つに、人間を書くのが巧いというのが挙げられるかと思います。
 人間を書くなんていうと、「いつの時代のミステリ書評だ」と思われてしまうかもしれませんね。別の言葉で評するならエピソードの一つ一つが際立っている、ということでしょうか。
 更に具体的に言えば、エピソードの一つ一つが非常に現実的、ということだと思います。これはリアリティがある、という意味ではありません。いや、勿論リアリティもあるんだけど。

ミステリというジャンルの作品においては、殺人事件など現実の世界ではなかなかお目にかかれない非日常が扱われますが、そのせいか日常の描写や、登場人物達の「普段の生活」があまり描かれないという傾向があります。ま、ミステリだ、純文学だ、という枠組みはあまり意味があるものとは思えませんし、最近ではジャンルの枠を超えた作品がそこら中に溢れているので正確な表現ではないかもしれません。
 しかし、こうした描写というか作者からの視点が手薄な作品が多いのも事実だと思います。

東野圭吾はこうした部分に徹底的とも言えるほど光を当てます。というかこれこそが東野作品の本質ではないかとも思えてきました。
 例えば『秘密』という作品などは、ある意味これが全てです。娘の体に妻の魂が宿る、という導入の事件以後は殆ど大きな事件が語られることはありません。その後は主人公の夫と、妻(娘)の生活(エピソード)が描かれていくだけです。その他の作品でも事件が起こり、それを解決していく、という流れはあるものの、その中で多くのページが割かれ、語られていくのはそれらの事件に巻き込まれた登場人物達の苦悩であったり、葛藤であったりという事件に関わったことによって、もしくは事件の発端を作ってしまうような、登場人物一人一人のエピソードなのです。そのエピソードがまた的確に人物を表し、また事件やストーリー全体に厚みを与えていることは間違いないと思います。
 私が『秘密』という作品の中で好きなシーンが、事件のきっかけとなるバスの運転手の娘に会いに行くシーンです。この部分で東野圭吾は両親を早くに亡くしてしまい親戚に引き取られ、加害者の娘として辛い生活を強いられている少女をファミレスのメニューに迷う姿で描写しています。決して多くの言葉で語っているわけではないのですが、この描写で彼女が現在置かれている境遇や、また逆にそんな彼女に対して優しく(イヤミなく)接する主人公と妻まで表現しているのです。

また。こうして挿入されるエピソードには東野圭吾ならでは、と感じる部分が多くあります。
 それは、登場人物にとってだけでなく読者にとっても受け付けにくい、というか容赦ないエピソードがなんでもないかのように語られるところです。
 先程から『秘密』ばかりを例に出して申し訳ありませんが(一番印象に強い作品なので仕方がない)、この作品の中でも形としての妻を失った主人公が、(ネタバレ→)娘の担任の写真で自慰してしまうシーンや、娘の体を持つ妻が夫を口で慰めようとするシーンがあります。また娘の電話を主人公が盗聴するエピソードはストーリーの根幹にまで関わってきます(←ネタバレ)。
 現在読んでいる『片想い』でも(ネタバレ→)性同一障害に陥ってしまった女性がホルモン注射を受けられない状況に陥り、生理が復活してしまうシーンが描かれています(←ネタバレ)。
 こうした描写は確かに、そのストーリーやキャラクタを語る上でこの上なく適切なエピソードです。しかし、いわゆる「作品の味」を苦いものにしてしまうことも事実です。『秘密』が単なるファンタジーで終われない大きな要素とも言えるでしょう。
 他の作品でも愛情や友情といった巧く利用すれば作品の受けを良くさせるかもしれない要因、性や暴力といった、直視しにくい問題についても東野圭吾は容赦なくメスを入れます。東野圭吾作品の多くが「後味がよくない」といわれるのはこうしたエピソードが原因の一つであることは間違いないでしょう。その意味でも東野圭吾の書くエピソードが現実的だと思うのです。そうしたところがまた私は非常に好きな部分です。

そして、その人間を書くということ、それ自体が究極の姿となった作品が『悪意』だと思うわけです。これについては是非ご一読していただきたいとしか言えません。

ただ、こうした一見さりげなく織り込まれたエピソードが、作者の計算尽くしである、と気がついてしまうともしかしたら興醒め(といっては大袈裟ですが)になってしまう方も多いのかもしれません。
 これが東野圭吾作品はどうも好きになれない、という方々の第二の理由かも。第一の理由ともども、本来ならば「売り」になっている部分が逆にマイナス要因として捕らえれているのかもしれません。

あらかた書いちゃった気もするとか言いつつ全然終わりませんな。さらに明日に続く。

Apr.12,2001 (Thu)

ミステリモード

なぜこの3日間、このサイトに似つかわしくない一見、真面目に見えることを書いているかというと、もちろん『片想い』を読んでたからっていうのもあるんだけど、ホントはMYSCON2が近いから。
 少しでも頭をミステリ思考にしておきたいのです。昨年のMYSCONの際には『秘密』の話で盛り上がったりしたこともあるし。そんなわけでしばらくこの状態は続くかも。

[memo]東野圭吾作品について・その3

もはや呟き状態に入ってますが、ここまできたら最後まで書く。

そうですね、あと東野圭吾作品に特徴的なことといえば、登場人物、つまりキャラクタの扱いが挙げられると思います。
 昨日の「人間を書く」ことが巧い、という論旨とは一見相容れないように思われるかもしれませんが、東野作品の場合、登場人物はストーリーを展開させるための駒であり、キャラで押す、というようなことはまずありません。まあ、それは登場人物だけでなく各種の小道具や設定にも言えることなんですけど。
 東野圭吾はまずストーリーありきの作家だと思います。登場人物や設定、小道具はストーリーというパズルを組み立てるためのピースに過ぎず、逆にそれらが必要以上に自己主張を始めてしまうとパズルが崩壊してしまうわけですね。

ですから東野作品において、印象に残る登場人物というのは非常に少ない。あれだけ話題になった『秘密』にしても主人公の平介や妻の直子の印象は薄いです。『秘密』で東野圭吾が書きたかったのは主人公や妻というキャラクタが葛藤、逡巡する姿よりも、そうした人物達が織り成すドラマにより主体が置かれていたということでしょう。これは他の作品においても違わないと思われます。ミステリ、という舞台において探偵役が地味で印象に残らないというのは本来弱点になってしまうわけですが、東野圭吾の場合には感じられないことからもそれが言えるんではないかと。

このことを決定づける存在が、東野圭吾の作品で唯一複数の作品に跨って登場している「加賀恭一郎」の存在です。彼は初出の『卒業−雪月花殺人ゲーム−』の時こそ事件に巻き込まれた大学生という立場で登場しますが、以後、様々な作品において刑事という職業で登場し、探偵役を演じています。
 しかし、彼に関する個人情報があまり語られていないせいもあって、彼というキャラクタが目立つことは殆どありません。それは彼自身が寡黙で感情を表に出さない性格であることも理由になるかとは思います。しかし、こうした特徴を持つ探偵はミステリにおいて多々登場しますし。彼の目立たなさというのは作者の周到な計算、つまりは作品においての駒であり、パズルのピースであるキャラクタを必要以上に浮き立った存在にさせていないという背景があるのでしょう(*1)
 ただ例外的な作品がないわけではありません。それは『眠りの森』という作品で、加賀恭一郎はこの作品の中で他の作品では見せることのない人間味を見せてくれます。正直いって、この作品の探偵役に加賀恭一郎を持ってきたことに少々違和感を感じるほどです。私はこの作品で一気に加賀ファンになりました。はっきり言ってこの後の加賀恭一郎がどうなったのか知りたくてたまりません。多くの作品に登場しているとはいっても時系列などが全く語られていないせいか、この作品後の加賀恭一郎がどうなったのかわからないのはむずがゆくて仕方がない(*2)。ただ、それは東野圭吾にとってはあくまでも作品そのものを構成するパーツでない以上、興味のないことなのかも知れませんが。でも気になるぅ。

ちょいと横道に逸れてしまいました。要は始めに書いたように、東野圭吾の作品においては登場人物というキャラクタが一人歩きすることはない、ということですね。よくマンガなんかで「キャラが勝手に一人歩きしていく」とか「作者の手を離れていく」なんていう表現をされることがありますが、東野圭吾の場合、それは殆どないといってよいのではないかと。
これもまたいい意味でも悪い意味でも計算され尽くしている東野作品の特徴であり、やはり気に入らない人っていうのはいるのかもしれません。

長々と書いてきましたが、別に誰に対して訴えてるわけでもありません。個人的論考。東野圭吾作品を好きな人もそうでない人もまだ未読だ、という人にも何らかの参考になれば幸いです。
 ご意見ご感想のある方は、メールフォーム掲示板までお願いします。その論旨には納得できん、でも構いませんので。いじょ。

とここまで書いておいて『片想い』を読み終わった。大筋ではやはり、この3日間書いてきた内容の通りかな。ただ、今回のキャラは結構印象に残ったかも。主人公じゃないけどね。


*1: 全ての加賀恭一郎が同じ人物だとも言及されていませんが
*2: 『眠りの森』をお読みになった方ならわかっていただけると思います

Apr.17,2001 (Tue)

出来事

ちょいと色んな事がごたついて日記が滞っておりますが、一応生きてます。

先週末は約一年ぶりにMYSCONスタッフ皆さんに会って、今週末のMYSCON2の本番に向けてのミーティングがあったり。ホントに久々にお会いしたのでミーティングよりも雑談に熱がこもっちゃったり。この半年以上、人と活発に話す機会ってそうなかったんで、思わず喋りすぎてしまった。皆さん、五月蝿くてスミマセンですm(__)m。
相変わらずミステリに閉じない、本の話題が沢山話せて楽しかったっす。

しかし、ちょっと遠出(私にとって新宿は遠出だ)と長時間の外出が祟ったのか体調はあまりよくない。MYSCON2本番に向けて今一つ不安だ…。

ガチンコ・バリバリ伝説

TBSの番組『ガチンコ』で、鈴鹿8耐を目指す企画が始まった。うーん、コーチの藤本さん、シブイっす。番組の中では今までにないタイプのコーチなのでこの先どうなるか楽しみ。思わずついていきたくなっちゃう(おい)。

東野圭吾作品について・蛇足

というより、疑問か。

まだまだあるような気もするけど、ひとまずこれだけ。

宮部みゆきの作品について

先日、MYSCON2のスタッフミーティングの際にジョニィたかはしさんしょーじくん内藤くん宮部みゆきの作品について盛り上がった(というより私一人で熱弁してしまった)。その際に述べたことについてなど覚え書き。
 前置きとして、私がこれまでに読んだ宮部みゆき作品は、文庫本として刊行されている作品の全てであり(時代小説含む)、それ以外はノベルズ『クロスファイア』のみである。したがって代表作とされる『理由』も読んでいませんし、最新作の『模倣犯』も手付かずです。それを踏まえた上で宮部みゆき論を語ってみました。

宮部みゆきの作品のついて「メルヘン」という言葉を用いたが、あれは少々違ったかな、と後になって思う。ただし、述べた内容については変わらず。以下、その内容。

宮部みゆきの作品というのは、人が人によって救われる物語である。ストーリーによっては悲劇的な結末を迎えるもの、主人公や作中人物が悲惨な運命に落ちていくものは確かにあるが、それでもその人物の心は他の人物によって救われていような気がするのである。
 私はそれを「アマちゃん性」と仮に呼んだが、その「アマちゃん性」があるからこそ宮部みゆき作品が好きなのである。

テキストとしての手触りだけ見れば、宮部みゆきの作品はほのぼのした作風のものも存在するが、全体としてはそうでないものの方が多い。しかし、物語の根底に流れる「アマちゃん性」はミステリという分野の作品の中では(特に現代の)強いと思う。
 例えば、よく「ほのぼの」とか「優しい」とかどちらかといえば温かい言葉で評されることが多い北村薫(*1)加納朋子の作品だが、宮部みゆきと比べれば、遥かに彼らの作品の方がシニカルでシビアである。表向きの手触りは逆に宮部みゆきの方がゴワゴワしているけれども。

繰り返すが、この人の人による救済を私は宮部みゆきに求めているし、その「アマちゃん性」を愛している。ただ、この論点が偏った味方であることも否定できないかも。なぜなら、私が愛する宮部みゆき作品は、初期の作品であることが多く、そのイメージを払拭できていないことも確かだからだ。
 参考までに宮部みゆき作品のベスト3を挙げておくと、『龍は眠る』『レベル7』『魔術はささやく』となる。短編としてはやはり『サボテンの花』だろうか。うーん、初期も初期やな。
 初期以降の宮部作品が、初期の作品から少しずつ色合いを変えていることは確かだし、それは認識している。ただ「アマちゃん性」はまだ確かに残っていると個人的には思っているのだけれど。

やっぱり終わらなかった…。続くかどうか不明。


*1: 北村薫については以前、Web上で話題になりましたな

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