書評リンクシステムについては着々と話が進行しているみたいですな。自分の書評ページもリニューアルしたいけど、もうちょっと様子を見て標準型が決まったら、それに従って改築しようと思います。
書評リンクありきで、書評ページのフォーマットが決まれば、それに準じたシステムとかが生まれてくるかも。そしたら便利なのにな、とか言ってみる。
妹が来月に結婚するので今日は家族四人で飯を食いに行きました。家族四人で行動するのは一昨年の年末に「最後の家族旅行」と銘打って屋久島に行った以来です。その前は10年前の妹の成人式まで遡ります。
それはそれとして三崎まで行って鮪専門店で鮪尽くし。うめー。食いまくった。トロも赤みも鮪ステーキも竜田揚げも美味かったけど、いちばん美味かったのが粗煮というのは貧乏性の為せる業か。ご飯三杯食って、寿司10カン食ったらさすがに満腹です。その後デニーズでショートケーキとパフェ(親父が食い切れなった分の残り)食ったけど。
反応がないのには慣れてるとはいえ、やっぱり凹みますなあ。
なんか督促したようになってしまってスミマセン。
帯クイズの三問目に誤植、という報告が解答と共に舞い込む。同じ著者の著作のタイトルに引っ張られてしまっていたようだ。ある意味でヒント。ご報告ありがとうございます。matsuoさんもトピックに取り上げてくれてありがとうございます。
一通来ただけでもよしとしよう。
『ブラックジャックによろしく』【→bk1へ】がドラマ化。うーん微妙。この題材はテレビで、それもドラマで扱うのはどうかと思うなあ。っていうかこのニュースを知った瞬間はあからさまに「反対」と思って、その理由をダラダラと書き連ねたんだけど、落ち着いて考えてみれば過去にも『白い巨塔』のような例もあったわけだし、と思い直して全部削除。ただ、少々の不安は残りますけどね。
ドラマ『最後の弁護人』。なんかまたもや次回予告でネタバレされた気が…。このドラマを見ていると自分が昔から「弁護士」という職業に対して感じていた疑問、そして「被告人」という存在に対する社会の反応といったことを改めて考えてしまう。いつか自分なりの形で消化したい。
『HR』。市村正規が!!。あー、ビックリした。ホント、何でもアリだな。しかし回を重ねるごとに「三谷幸喜のやりたいシチュエーションコメディってのはこういうものなのか?」という疑問が膨らんでゆく。よくわからんけど「そうじゃないだろう」となんとなく思う。
あ、レギュラー出演者のエンドロールは五十音順だったのね、今日初めて気がついた。
政宗さん、お気を遣っていただき、ありがとうございます。
月曜日にメモ帳を買いました。スケジュール帳という方が確かだけど、スケジュールを書き込むためのものではなく、メモするのがメイン。なので当然システム手帳なんてものは買いませんでした。なるべく後半のメモ部分が多い普通の手帳。
最近ホントに物忘れが激しくなってしまったので。「憶えていられるだろうな」と思ったこともなるべくメモするようにして癖をつけるようにしています。
記憶力に関しては確実に老化していると実感しますね。昔はくだらないことが脳味噌を占めていても不便がなかったのに、最近はそうではなくなったからかもしれません。
ただ、メモを取り始めて思ったのが、自分は字を書く、という行為自体が好きなんだなということ。PCを使うようになってから、自らの手で鉛筆やボールペンを持って字を書くことから、すっかり遠のいてました。書いても走り書き程度だったし。
字を書くのって、こんなに楽しかったかなあ。なんかはまってる。特に漢字。
飽きっぽい自分がいつまで続くか不安ですが。
『しゃべれどもしゃべれども』佐藤多佳子読了。レビューは後日。
そうそう。昨日の『ブラックジャックによろしく』のドラマ化に対して、私が「不安」と書いたのは、別にドラマ自体の出来不出来に関してではありません。それを見た視聴者の反応。過剰反応する人間って絶対に出てくると思うんだよね。一部を見て全部だと思う人間がきっといるんだよね。それが怖いな、と。
でもまあ、視聴者の反応もドラマの出来不出来によるのか。本当に怖いのは出来不出来に関係なく、そういうことに病的に敏感な人間なんだけどね。
『美女か野獣』。このドラマは先祖返りしてるね。それが受けてるのか。こういうドラマもたまにはいいでしょ。でも美帆ちゃんの出番はもっと増やして〜。
渡辺いっけいの役名が久瀬光彦つーのはいかがなもんかと。他の役名も誰かをもじってるんかな。
『十八の夏』光原百合読了。レビューは後日。
購入物。
『本の雑誌』で'97年の長編ベスト1に選ばれた作品。
今昔亭三つ葉は二つ目(*1)になって3年目の噺家。真打目指して修行の毎日だが、生来の短気が祟って問題を起こすこともしばしば。弟子を取るのが嫌いな師匠はまともに稽古もつけてくれない。
そんな三つ葉の元にひょんなことから「人前でうまくしゃべれない」四人の男女が集まって、落語を教えることになる。これがまた四人が四人とも手に余る。自分の恋と落語への不安で、人のこと構ってる暇などないはずの三つ葉だったが、嫌々ながらも落語を教え続けるのであった。
これは面白かったです。久々に物語の世界に入り込んで読んでました。傑作とかとは違うんですが、多くの人に選ばれるのはなんとなくわかります。と同時にこの面白さがわからない人っていうのもいるんだろうな、とは思います。
作者は文章のリズムを作るのがとても巧い。落語を扱っているだけに、作者自身も落語が好きなんでしょう。一つ一つの文章にリズムがあって心地好かった。江戸っ子風に言えば「気風のいい」小説です。正直、ミステリの多くは文章のリズムに気を遣ってないものが多いので(特に翻訳ものや饒舌文体を得意とする作品)、読感のよい小説を久々に読めたという楽しさもありました。
ただ、この小説に入り込めるかどうかっていうのは、下に引用した台詞を理解できるかどうか、って部分にかかってるような気もします。
「気持ちだけじゃだめなの。以心伝心じゃだめな時があるの。言葉が必要なの。どうしても言わなければならない言葉というのがあるの。でも、言えないのよ!」
(P.241)
ズバリ、この気持ちが、この苦しみがわからない人にとっては登場人物達が単に滑稽で胡散臭い小説にしか映らないかもしれません。ある人物に感情移入できる、というほど単純な問題ではないのですが、やっぱり根本はこの台詞なんです。
本作には様々な人間の、様々な場面でのコミュニケーションの形が描かれています。ある特定の人物に感情移入する人もいるでしょうし、時にこの人物に、時にこの人物に、というように自分の中の経験によって振り変わる人もいるでしょう。それがあることで、この小説に自然に入りこんでしまう。「うん、わかるわかる」と思ったり「あー、違うんだよー、もうー」と思ったり。それこそがこの小説の面白さなんじゃないかな。
「言いたいことが言えない」という単純なテーマなんですが、人との出会いや落語を憶えることによって、それを克服する、という単純な図式になってないのも好印象。読者ってのは勝手にストーリーを作ってしまいがちですが、同時に「そんな簡単に解決してたまるか」という気持ちもあるものです。その読者の心のバランスをうまいこと取ってるな、と思います。
ハッピーエンドで終わるのではなく、その後のハッピーエンドを読者が望んでしまう終わらせ方というのは、読者を「いい気分」にさせる効能があるんですよね。背表紙にある「読み終えたらあなたももいい人になってる率100%!」というのはきっとそういう意味なんでしょうね。
読み終わったあと、「なに書こうかな」と考えていたら矢鱈と自分語りになってしまい、なんとか自己修正。一つだけ言っておきたいのは「ベラベラしゃべってるからって、言いたいことが伝えられてるわけじゃない」ということ、かな。
はてなダイアリーのベータテスターになってみました。日記はこちら。この日記との使い分けはまだ考え中ですが、ま、追々。
デザイン弄くってたら、時間があっという間に過ぎていった。とりあえず暫定で。
ゲームボーイアドバンスSPが買えなかった…。楽しみにしていたのに。なんでも深夜組まで出て、昼前には完売だったそうです。会社帰りのサラリーマンには買えません。ホントに日本は不況なのか?。
まさか今時ゲームで行列が出来て買えないなんてことがあるとは思ってもみませんでした。次回入荷も未定らしい。この盛り上がった気持ちをどこへ。
今年も幼馴染からの贈り物が届く。嬉しさと共にちゃんとお返しをしていない自分のスボラさに嫌になる。今年こそは絶対にお返しすること >自分。
はてなダイアリーの方には写真を載せてみました。
『嘘をもうひとつだけ』東野圭吾読了。レビューは後日。
寝まくっていた。
で、起きてからはてなダイアリーを色々と弄くっていた。あっという間にこんな時間に。
まだ、二つの使い分けを考え中。しばらくは内容がかぶることがあるかも。ただ、あっちはつらつらと長く書くことよりも、ユーザ間の情報共有とかが本来の使い方だろう。こっちは好き勝手に自分の書きたいことを書ける。
とはいえ、無駄に長くしても仕方がない。あっちの方は外からでも書けるという利点もあるから、この日記のブレインストーミング用に思いついたことをメモするような感じで使おう、と漠然と思いついた。
一番の問題ははてなダイアリーを弄くっている暇なんかホントはないってことだ。諸所の作業が遅れている。スミマセン、許してください。明日から頑張ります。
とりあえずはてなダイアリーの方はあの形で決め。あとは思いついたときに変えていこう。
使い分けについても追々ですが、しばらくはネタが重なってることもあると思います。一応、こっちには本とミステリの話題を中心に、今までの形をなるべく崩さずいこうと。あっちにはそれ以外の話題や昨日も書いたようなブレインストーミング的な使用法で。というのも、現在のはてなダイアリーはあくまでもベータテストであって本運用が始まったらどうなるかわからないし。
それにしても色々な日記システムを使ってみるのは面白い。こうやって試行錯誤していく中で自分に一番あった日記システムとその形式を探していきたいですね。
それにしてもはてなダイアリーの対応の速さにはビックリです。このレスポンスの速さは確かに魅力だなあ。それと、ユーザ間の遣り取りが活発です。私が日記でポツリと書いた疑問に、見ず知らずのユーザさんがアドバイスしてくれたりする。これが素晴らしい。
そうそう早いのは対応だけじゃなくて、サーバレスポンスも速い。結構なシステムだと思うのですが、表示するのに「遅い」と感じたことがない。まだ日記ログが多くないということもあるんでしょうが、この早さは凄いと思う。これからログが増えてきたらどうなるのかわかりませんが。
メモ。
完敗だね。時期的にコンディションが悪いとか、雨のせいで集中力が欠けてるとか、高原が抜けてコンビネーションの練習不足とか(個人的には大岩が抜けたディフェンスラインの方が不安)色々理由はあるのかもしれないけど。それを差し引いても完敗でしょう。
球際で殆ど負けてました。精密かつ速いパスが売りの磐田ですが、ことごとく球際で負けてしまうのでいつものように自分のペースでパスが出せない。だからパスの精度が悪くなる。で、また球際で争うことになり、という悪循環。昨年、常に王者として戦ってきた磐田だけに受けに回ると弱い、ということを露呈しました。
攻撃で言えば、昨年から指摘されていた真ん中中心の単調な攻めが、高くて強いディフェンダーを揃えるチームには崩せないということ。それでも今迄勝ってきたのは高原のポストプレイがあったから。ゴールを前にすると途端にスピードダウンしてしまうのも気になる。
あくまでも照準はJリーグ、ということなのかもしれませんが、日本がホストの大会でJリーグチャンピオンの看板背負ってるにしてはお粗末な試合でした。城南一和が強かった、というのはあるけどね。特に前線のサーシャ、キム・ドフン、キム・デイの三人は素晴らしかった。一試合通して前線からプレシャーをかけてジュビロのペースを崩し、とにかく前へ前へとプレーする。3バックの裏をことごとく衝かれたジュビロ。両サイドバックのバランスの悪さも不安を残しましたね。
今頃、控え室ではゴンの怒りが爆発してそうですが、ここまで完敗したというのはジュビロにとっていい薬になるかもしれません。どこかで油断というか慢心があったでしょう。今更気づいてもこの大会では優勝できませんが。
というわけでアントラーズに期待したいのですが、なぜテレビ中継がないんじゃ!。
と思ったら、ナイターで中継。この季節にこの雨でナイターとは。選手以上に観客が可哀相だな。
エウレル凄かったねえ。ホントに暑い国ブラジルから来たんだろうか。つーかこの時期にナイターやるっていうのは信じられません。選手と観客の皆様ご苦労様でした。
大連はやはり日本や韓国のチームと比べると格が一つ落ちますね。タイプ的にも去年のサンフレッチェ広島を思い浮かべました。とはいえ、リーグ開幕一ヶ月前というのにアントラーズのコンディションは高い。さすがにトニーニョ・セレーゾ監督が「今年は五冠獲る」と言い切るだけのことはあります。
その鹿島の中で一番の不安はなんといってもGK。曽ヶ端の怪我の具合がどの程度か不明ですが高さき(「さき」の字が出ません)では勝ち抜けないでしょう。前に出るタイミング、スピードがまったくダメ。なにより接触を怖がっているのはGKとして失格でしょう。
それと青木が全然ボールに絡めませんでしたね。本田の代わりはまだキツイか。
今日のアントラーズの試合を見ると、ジュビロのカップ戦での弱さの理由がわかったような気がする。短期決戦での集中力とコンディション調整は言うに及ばず、一番の要因はセットプレーだろう。短期決戦で確実に点を獲る、それにはセットプレーが最も確率が高い。ジュビロがこうした大会を制するためにはセットプレーの充実が急務だろう。
これで優勝争いは鹿島と城南に絞られたと考えていいわけだが、鹿島と磐田の戦いがどうなるのか気になるところだ。城南としては足を引っ張り合ってくれることを願ってるんだろうな。
体の調子が思わしくなかったので会社を休む。風邪なのか花粉症なのか?。外に出ないと話題がないなあ。寝まくっていたせいもあるけど。
『動物のお医者さん』がドラマ化。
うーん、またもやマンガのドラマ化で、微妙な。悪夢空想鏡台のこの記事から知ったんですが、意外な事実も知った。皆さんは既知?。そんなことより私も二階堂は誰だが気になる。
この日記とはてなダイアリーとの使い分けに悩むと共に、日記のあり方自体にも悩んできた。「日記」が二つもあることに対するメリットはあまりない。明確な使い分けが出来ていれば問題ないけど。日記とBlogとか。日記と書評とか。
ま、この辺の思いは向こうにダラダラ書いていくつもり。そういう行為は向こうのほうがあってる気がするから。
いや、ぽんさん、そないなこと言われたら恐縮しまくりでんがな(興奮して言語中枢が混乱している模様)。長いだけが売りの駄文に過分なお褒めのお言葉。誠にありがとうございます。
自己満足のためとはいえ、こうして人様の目に触れるように日記を晒し上げている以上、やはり「誰かが読んでいる」という反応をいただくことは素直に嬉しいです。時に、否定的な意見でさえ嬉しく思ってしまうこともあるほどに(だからといって虐めないで下さい)。
しかしまあ、嬉しい気持ちと共に責任も感じてしまいますな。実際に読んでみて「なんじゃコリャ!」ってこともないとは言えないし。先に謝っておきます。スミマセン。小心者。
メモ。
半ば予想したとおり、はてなダイアリーの方は下書きというか草稿倉庫になりつつあるな。適当に色々書いてます。よろしければツッコミ入れてあげてください。
滅・こぉるさんとU-ki総統の日記(2/15と2/17日)を読んでふと思い出した。あ、このお二人のような学問的なお話ではありません。単なる思い出話。私にはそういった高等な脳味噌はないのです。
何を思い出したかってえと、高校時代の部活時代の話。日常は特にすることがないので、他愛のない話やトランプやボードゲームやって時間を潰していることが殆どなのだが、ごくたまに議論といえなくもないようなことをすることがあった。
別に「議論しようぜ」とか宣言して始まるわけではなく日常会話の延長なのだが、突然その場にいた連中に「議論スイッチ」みたいのが入るのである。今思えばディベートトレーニングみたいなもんだったのかな、と思えないこともない。
その日は「“真理”は存在するか」というテーマについて議論していた。くどいようだが哲学や物理学や数学などという高等な知識はないのでガキの理論とあまり変わりはない。ちなみに私は「“真理”は存在しない」派だったが、部室の趨勢は「“真理は”は存在する」であった。しかし、目くらましの舌論では定評のある(口八丁ともいう)私を彼らはなかなか打ち破れない。
そのうち後輩の一人が「じゃあ先輩、1+1の答えはなんですか?。2でしょう?。1+1=2は真理じゃないんですか?。もし1+1=2以外の答えがあるなら教えてください」と言ってきた。
それに対する私の答えは思い返しても恥ずかしいのでここには載せない。詭弁にも屁理屈にもなっていない急場凌ぎの言い逃れである。しかし、その時は先輩の威厳とテンションの高さで乗り切った記憶がある。
それはさておき「1+1=2」は真理なのだろうか、とまた考えてみた。真理というのが大袈裟ならば「正しいのか」と考えてみたわけだ。確かに現代の数学を元にした考え方正しいように思える。ただ、逆に言えば、現代の数学自体が「1+1=2」を正しいものとして構築された学問ではないのだろうか、とも思える。であれば、現代の数学が「1+1=2」を正しい、とするのは当然のことである。
だが、現代の数学と概念自体が異なる数学というのはありえないのだろうか。例えば「0」という概念が発見されるまでの人間の考え方と現在の人間の考え方は同じなのだろうか。「0」という概念が存在しない時代の人間に「0+1=1」と教えた時、彼らはどう思うのだろうか。我々がまだ知らぬ概念というのは存在しないのだろうか。もしかしたら宇宙のどこかでは「1+1=3」という概念が通用する世界があるのではないだろうか。
そんなことをつらつらと考えていたらお昼を過ぎてしまった。仕事しろ。
『Pの密室』島田荘司【→bk1へ】読み中。
購入物。
ミステリレーベルからの出版はかなり久しぶりな気がする北村薫の最新作。文藝春秋の『本格ミステリマスターズ』の一作。
舞台は昭和7年の東京。華族の令嬢・英子の元に新しい運転手がやってくる。彼女の名前は別宮みつ子。女性が運転手というのは珍しいこの時代。凛とした彼女の姿に、サッカレーの『虚栄の市』の主人公を重ね併せた英子は、彼女のことを密かに「ベッキーさん」と呼ぶようになる。
大袈裟な表現かもしれませんが、読んでいる間はまさに至福のときでした。美しい文章というものは、これほどまでに人の心を温めてくれるのか、と。
決して魅力的な謎が登場するわけではありません(ミステリ的な醍醐味を期待するとガッカリするかもしれません)。血湧き肉踊る物語が展開するわけでもありません。ここにあるのは、日常とその周辺(ただし昭和7年の)の風景です。しかし、その日常の中にも、物語が存在することを北村薫は教えてくれます。
「(前略)何によらず、物事というのは汽車の窓から眺める風景のように、我々の前を過ぎて行く。その中から<<おや、あれはなんだろう>> <<どうしてあんなことになるのだろう>>という疑問を見つけるのは、実は、想像以上に難しいことなのだよ。」
(P.209)
「見えるもの」が大切なのではなく「見る人の心」こそが大切なのだ、ということ。何気ない日常の中に、ふとした異物を見つけること。同じものを見ても「美しい」と感じるか「汚らわしい」と感じるかは、全て人の心の為せる技なのです。
本書のタイトルである『街の灯』はチャップリンの映画のタイトルが由来となっています。その映画『街の灯』のラストに対し、登場人物の一人である道子が語る言葉などはまさしく「見る人の心」を映し出す鏡のような役目を果たしているように思えます。
ベッキーさんと英子の関係も、従来の探偵と助手の関係とはちょっと違います。事件(?)を追うのは基本的に英子だけ、ベッキーさんは英子にヒントを与えるだけの役目です。しかし、そのヒントの与え方もまた「美しい」「汚らわしい」といった答えを誘導するものではありません。彼女はただ「違ったものの見方」を与えてくれるだけなのです。そんなところからも、この物語に通底して「見る人の心」というテーマが語られているような気がします。
この物語も北村薫が本来得意とするところの「日常の謎」ものなわけですが、昭和7年という舞台が描かれることによって私達にとっては「非日常」になっています。そこがまた味わい深く感じられる理由かもしれません。
この一冊だけでは、ベッキーさんの謎に包まれた正体や、英子の成長という意味ではまだまだ語られていない部分が多いと感じてしまいますが、どうやらシリーズ化されることが決まっているらしいので先を楽しみに待ちたいと思います。
余談。北村薫の作品は「余韻」が際立っているように感じます。本書でも最後の一編である『街の灯』のラストの余韻は素晴らしい(こんな陳腐な表現しかできない自分がもどかしい)。読み終えて、同じ著者の『スキップ』のラストを思い出しました。あの余韻も素晴らしかったなあ。
え!?これで終わり?!。何じゃそりゃ。ただ殺しあって終わりですか。しかも盛り上がってないし。言いたいことも何も伝わってこないよ。わけわからん。いかにも「もう飽きた」って感じの終わり方です。正直、腰砕けというか舌足らずというか。ぶっちゃけ駄作。期待したのになあ。
おまけで読みきりが二編入ってますが、これもなあ。本編が本編だっただけにこっちも感触悪いです。なんだかなー。
一人では死ねなくて、ネットで仲間を募る人。一人では死ねなくて、120人以上を巻き込んで、自分は生き残ってしまう人。頼むから他人を巻き込まずに死んでくれ。誰も止めないから。
『最後の弁護人』。裁判所の証人控室って誰でも入れるもんなの?。ま、来週見てからだな。
『HR』。なんか、無理にアメリカン・シチュエーションコメディしようとしすぎちゃった、みたいな。うーん、正直ここのところ笑えないんだよなあ。
ドラマ2つ続けて國村準を見た。当たり前だけど全然別人だね。最近のドラマって、主人公格だけじゃなくて脇役も一定化してきたような気がするなあ。ドラマ作ってる人達は、「この人を使いたい」という気持ちばかりで、オリジナリティというものを忘れがちなんではないでしょうか。
昨晩はぽんさんのチャットにお邪魔させていただきました。楽しかった、けど、何かが、何かが違う…。
『Pの密室』島田荘司【→bk1へ】読了。レビューは後日。
夭逝したSF作家、広瀬正の1971年の作品。この年、『ツィス』で上半期の直木賞候補作、本書で下半期の直木賞候補作となるが、どちらも落選。翌年、この世を去った。また処女長編『マイナス・ゼロ』も1970年の直木賞候補作となっているが、これも落選している。
昭和45年、歌手生活37年を迎えた大歌手・橘百合子は、盲目の博士・片桐真一と思わぬ再会をする。二人は37年前、互いに仄かな恋心を抱きつつも、やがて違った道を歩き続けてきたのだった。
この物語はSFにおける「If」の世界を描いた物語である。37年前、互いに想いを寄せつつも別々の人生を歩んできた二人の現実と、“もし”二人が結ばれ、共に人生を過ごしてきたら、という空想。この二つの物語が昭和初年に遡り、並列で描かれる。いわば、「二つの過去」の物語である。
とはいえ、それ以外の部分でのSF的要素は殆どない。並列で語られる、といってもあくまでも「別々の」物語であるから両者が交わり合うこともない。しかし、その「単なる物語」が滅法面白いのだ。
その理由は、解説で小松左京がこう語っている。
生活のディテイルこそが、「人間の“生きる”歴史」の最も重要なものなのだ……「あの時・あの日」自分は、自分の家族は、隣人は、友人は、日本のあらゆる地域のあらゆる人々は、何を見、何を聞き、何をし、何を感じていたか?
(小松左京の解説より)
まさしくこの小説は、あの時・あの日の百合子と真一が何を見、何を聞き、何をし、何を感じていたかを、微に入り、細に入り描いている。それがあたかも読者が昭和を始めを追体験しているかのような気持ちにさせるのである。あの頃のラヂオ、あの頃の映画、あの頃の街並み、あの頃の人々の姿が目に浮かぶようというのは、まさにこのことだ。
同著者の『マイナス・ゼロ』を読んだ時にも感じたことだが、このディテイルによるストーリーテリングの才というのは、ちょっと他に類を見ないと思う。言ってしまえば、平凡な人間の平凡な生き様をここまで面白く読ませる氏の才能は只事ではない。
それだけに氏が夭逝してしまったことを悔やまずにはおれない。それこそ、「氏が生きていた」という「If」の物語を生きてみたいものだ。
最後でいかにも洒落っ気のある作者らしいオチが用意されているが、これには賛否両論というほどではないが、「なくてもよかったのでは?」という意見が結構出たらしい。私個人は、このオチを素直に受け入れたい。どこかで聞いた台詞ではないが「愛は歴史をも変える」のである。
最後に、私事で恐縮だが、『街の灯』北村薫に続けて本書を読んだだけにより一層、昭和初期の雰囲気に浸ることができた。この「近くて遠い」時代にノスタルジーを感じてしまうのは、現代の日本人の原型がここにあるからかもしれない。
4巻が出た時に書いたけど、やっぱりこのNASA製特殊素材はやばかったと思う。敵のインフレを避けたい気持ちはわかるけど、安易過ぎたんではなかろうか。連載がとまってるのもわかる気がする。まあ、狂死郎を単なるかませ犬で終わらせないところは流石だと思うけどね。
それ以上に困っちゃうのが、『コータロー』のプロットとなったプロになる前の原稿がおまけで載ってるんですけど…。ページ数埋まらんなら単行本なんか出すなよ。
決してつまらない、というわけじゃないんだけど、「臨床心理士」というのとはドンドン離れていってる気がする。私の求めるものではないなあ。中にはいい話もあるんだけど。うーん、買い続けるかどうか迷うところだ。もう一つ何かが足りない。
それにしても、この作画者は絵が上手い。原作に恵まれればブレイクする可能性はあると思うんだけど。
イカン、ボーっと色々考えてるだけでドンドン時間は過ぎていく。やらなきゃならんことは山積みなのに。少しはTo Doを考えろ >自分。
ボーっと考える時間ばっかりで、煮詰めて物事を考える時間を作ってないんだな。いつも何かしらしてるし。考えるためだけの時間を作った方がいい。その意思を持ちなさい >これも自分。
ドラマ『美女か野獣』。美帆ちゃん殆ど出番なし。ショボーン。渡辺典子…老けたな。ショック。このドラマ見てると、古臭い題材でも調理の仕方で見れるようになるよ、ってことがわかる。
そういや日記書きながら『恋は戦い!』とかいうドラマの音声だけ聞いてたスよ。なんすかこのドラマの選曲は。名曲かければいいってもんじゃねえだろ。ドラマが主役なんだか音楽が主役なんだかわかりません。ドラマつきコンピレーションアルバム?。音効はアホだろ。
そんなことより↓ですよ!。
その他のメモ。
バルサはチャンピオンズリーグだけは絶好調だな。まあ、リーガも降格圏内からは脱したようだし。会長辞任でよい方向へ向かってくれるといいんだが…難しいだろうなあ。ルイス・エンリケが戻ってこないことにはどうにもならんかもしれん。
表紙がいい。高原は鈴井カメラマンがここにいることを知っていたんだろうか。
高原のブンデスリーガ初ゴールを受けての(Number的にはグッドタイミングだっただろう)ドイツサッカー特集。
私くらいの世代の人間ならば「海外のサッカー」といえば、それはすなわち「ブンデスリーガ」である。奥寺の影響もあってか、あの当時で海外のサッカーで報道されるものといえばブンデスリーガくらいのものだった。西ドイツ代表が全盛期だったせいもあるだろう。あの『キャプテン翼』でも若林が留学するのはドイツ(それも高原が移籍したハンブルガーSV)だ。
そんなブンデスリーガを愛する世代にとって嬉しい特集だが、ちょっと物足りない。そのことがすなわち、現在のドイツサッカーを如実にあらわしていると言えなくもない。2002年日韓共催W杯で準優勝したとはいえ、現在のドイツサッカーは輝いているとはいえない。活きがいいのはバイエルンただ1チーム(そのバイエルンにしたって今季のチャンピオンズリーグは1次リーグ敗退である)。昨年のチャンピオンズリーグ準優勝のレバークーゼンは二部降格が危ぶまれているほどだし、他のチームを見てみても、ドイツ人選手で目に付く選手は殆どいない。観客動員数こそ好調だが、それが「ドイツ人のサッカー」とイコールでないのが皮肉なところだ。
で、肝心の記事。
【高原直泰「38日間の苦闘」】
いや、ホントにいいタイミングでの初ゴールだったと思う。この記事にあつらえたかのよう。しかし、そのせいで報道過多だったから、この記事の目新しさはあまりない。再確認という感じ。とにかくアルゼンチン時代と違ってゴールを量産して欲しい。
【スペシャル・インタビュー1 『ギュンター・ネッツァー 黄金の‘70年代を語ろう』】
タイトルからわかるように黄金時代の回顧。現役時代「賢人」と呼ばれたネッツァーは、あの時代と比較してドイツサッカーの未来を語る。決して楽観はしていないが、未来はある、と語っている。私はネッツァーの現役時代を殆ど知らない(彼はW杯では活躍の場がなかったから)。しかし、ドイツ人にしては珍しい彼の気質がドイツで珍重されたのはわかるような気がするインタビューだった。でも、「賢人」らしさを出すためだと思うけど、翻訳の口調はちょっとやりすぎ。
【スペシャル・インタビュー2 『クリストフ・ダウム 失われた10年を乗り越えて』】
「失われた10年」というのは‘96年欧州選手権に代表される‘90年代のドイツサッカーの低迷を表す。ダウムは、昨年のW杯ドイツ代表監督になるはずだったが「コカイン疑惑」で辞任に追い込まれた。その結果、監督資格を持たないルディ・フェラーが監督代行として指揮を執ったわけだ。どうやらその疑いは晴れたらしい。選手としてプロ経験のないダウムだけに、言ってることは理論的で実務派であることが窺い知れる内容。ただ、それだけにあまり面白味のないインタビュー。
ブンデスリーガ特集なら、ベッケンバウアーとかルンメニゲとかザマーとかマテウスとか、それこそフェラーのインタビューの方が面白かったとは思うが、彼らはこれまで何度かNumberのインタビューに答えているからなあ。あえて違う路線で攻めてみたんでしょうか。個人的にはブレーメとかのインタビューが聞きたい。あとはブッフバルトとかね。
実は一番面白かったのは【アディダスかプーマか、それが問題だ】だったりする。
私はこの対談のメンバー(金子達仁、杉山茂樹、中西哲生)よりも下の世代になるが、確かに当時のサッカー少年にとってアディダスかプーマか、というのは大きな話題だった。私の好きなセンスは殆どアディダス派だったのだが、初めて履いたスパイクはプーマだった。近所のお兄さんからのお下がりである。それでも嬉しくて、サイズが合わなくなってからも捨てられなかったなあ。それにしても時代が変わったなあ、と思う。当時はスポーツブランドのシャツとか着てたら「ダサい」の代名詞だったのに(中西哲生もそう回顧している)、今ではジャージで町中を歩いているのは当たり前。女性でもアディダスブランド着てたりする。あの頃じゃ考えられないよ。今思えばプレミアなものも結構持ってましたがさすがに捨ててしまいました。
【密着ドキュメント、福田正博『ラスト・ショット』】
タイトルから何からライターが勘違いしすぎ。なにを詩的な雰囲気を醸し出そうとしてるのか。全然伝わってこないよ!。俺は生の福田の声を、感情を聞きたいんだよ!。この枠はいつものようにインタビューにして欲しかった。福田を愛する一人のファンとして哀しい。
ま、総体的に物足りないのは仕方がない。なんてったって現役のリーガの選手のインタビューすらないし。でもあれだね、『Number』がやる紀行ものはいいね。普段見ることが出来ない町や人の風景が見えるから。
できればマーティン・ヘーゲレには2ページじゃなくもう少し書いて欲しかった。直接の記事じゃなくても何かの記事を編集するとか。まあ、他紙に連載持ってる人間としてはアレが精一杯だったのかもしれないが。
2006年ドイツW杯の公式ビールがバドワイザーに決まってるらしくて、ドイツ全土で反対運動が起こってるらしい。頑張れドイツビール(私は酒を飲みませんが)。
『Number 570』と↓のマンガ読んでました。
購入物。
「花」をモチーフにした四編が収録された短編集。表題作の『十八の夏』は第55回推理作家協会賞・短編部門を受賞した。
浪人生の信也とデザイナーの久美子のひと夏の出会いえお描いた、【十八の夏】。
妻を亡くした書店員が、別の本屋で働く女性と結ばれようとする【ささやかな奇跡】。
まさしく「純情」な兄貴が惚れた相手とは、【兄貴の純情】。
見違えるばかりに成長した教え子が背負った「不幸」とは、【イノセント・デイズ】。
昨年(2002年)のMYSCON3で著者御自らが、「今度の作品では人が死ぬんです」と堂々と宣言されていたが、本当だった(ミステリ作家が何を言い、というなかれ)。
しかし読み終わって思ったのは、やっぱ光原百合は人の死なない話のがいいなあ、というものだった。というか不遜な言い方をすれば「ミステリに拘らなくてもええんちゃうか」とすら思ってしまった。
というのも本書で私が一番気に入った話が【ささやかな奇跡】であり、その他の三作についてはよい作品とは思うのだが、残念ながらあまり印象に残らなかった。そして、その【ささやかな奇跡】は、ミステリ度が限りなく0に等しい作品だったのである。ご本人を前にしたら言えないが、「ミステリを書こう」をいう意識が前面に出れば出るほど、ミステリとしても小説としてもどっちつかずの物足りない印象になってしまう気がします。あくまでも比率の問題で、全体量には満足ですが。
印象に残らない、という理由はもう一つあって、作家としての練度が上がってしまったが故に、確かに小説として巧くはなっているんだけど、「光原百合らしさ」というものが希薄になったとも思うのです。もちろん、そんなことはない、という方も大勢いるでしょうけし、逆に「こんな作品も書けるのか」と驚きに似た賛辞を送る人もいるでしょう。私も、その点は同じなのです。
ただ【十八の夏】が推理作家協会賞を獲ったというのは、正直驚きで、このレベルの話なら他の女流作家と呼ばれる作家の短編にありそうだな、と思ってしまいました。しかし、逆に言えば、光原百合の小説がいわゆる女流作家のレベルにまで上がってきた、といえなくもないのです。
これはある種のジレンマですが、少なくとも私は、光原百合らしさ、というものを愛して読んできましたから、少々残念に感じてしまいます。自分必要以上に「らしさ」を期待してしまったのがいけない、それはわかっていますけど。
ぶっちゃけて言ってしまえば、光原作品においてミステリとしての魅力は低かったと思う。しかし、それでもそれらの作品が愛されたのは「光原百合にしか書けない」と思わせるものがあったからだと思うのです。それは温かさであったり、優しさであったり、言葉は人それぞれでしょうけど。
それがなくなってしまった、とは思いませんし、それがより高いレベルで提示されているのかもしれません。また「らしさ」という形で作家を縛るものでもないとは思います。ただ個人的に、光原百合作品に求めるものが、その「らしさ」だっただけに少々残念だった、というだけです。一冊の本として、決してつまらないものではありませんし、むしろこれまでの作品よりも「出来はいい」と思います。
わがままは承知ですが、私としてはまだまだ「読者(と作者)の視点に近い」主人公が活躍(?)する光原作品が読みたい。彼女達が、迷い、悩み、もがき、けれど喜び、笑い、前に向かって歩いていく、そんな話が読みたい。そう思ってしまいます。とはいえ、作家としての視点は作家の成長と共に変わっていくものだから、望んでもしようがないことかもしれませんが。あえて言わせてもらうなら(こんな表現ばっかりだな)、私は光原作品における「未熟さ」を心から愛していたのかもしれません。
余談。もしかすると、本書に登場する短編の主人公がすべて男性だった、というのがまたひっかかってるのかもしれない、とここまで書いて思い始めました。うーん、こっちの線から読み砕いてみた方がよかったかも。