ごくたま昨日日記 in July, 2003

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Jul.11,2003 (Fri)

daylife

久々のメンツと飯食ってカラオケしてきました。こんな時間に帰ってきたのは久しぶりだ。

レイカーズめ、ペイトンだけでなくマローンまで。もうなりふり構わずって感じですな。野球の巨人、サッカーのレアル、バスケットのレイカーズ。金に物言わせて大物取り捲る三巨頭。ちなみに全部嫌い。
ジャズはストックトンが引退してマローンが抜けたらボロボロになりそうだなあ。

『チャーリーズエンジェル・フルスロットル』(2003 アメリカ)[movie]

監督:McG、出演:キャメロン・ディアス、ドリュー・バリモア、ルーシー・リュー

わかってるとは思うけど、あらすじなんてわざわざ書きませんよ。

前作を見たときにも書いたが、色んな意味でサイコーである。他に感想なぞない、と言ってしまえばそれまでなのだが。

ほとんど前作と同じ感想しかないけど、あえて他の点を挙げるとすれば、今回はTV版『チャーリーズ・エンジェル』の影響がいくらか薄れ(それでも重要場面に驚きのTV版ネタがあるが)、‘70年代テイストから、プロデューサーであるドリュー・バリモアの好みを反映した‘80年代テイストに移行している分、より私の好みに合致したので、「サイコー」度合いは増した、ということだろうか。特に音楽は‘80年代の名曲がガンガンかかるので、歌うのを我慢するのが辛かったほどである。

それと、前作が単純な「悪漢退治」であったのに対し、今回はちゃんとした物語と背景がある、という点が違う。だけれども、必要以上に説明しようとしたり、そういった部分も含めてエンタテイメントとしての「サービス」と割り切って作っているから面白さが損なわれるようなことはない。

これは確かに劇場映画なんだけど、ドリュー達がやりたかったのはバカみたいに金かけたテレビドラマの拡大版なんだろうな。一人でも多くの人が楽しめるように、老若男女が見てもオッケーなエロと笑い。そして爽快感。タイトル出るまでの演出も完全にテレビを意識してる。とにかく「マス」を対象にした痛快娯楽映画。観客を楽しめるためのサービス満載、一切手抜きなし。その意気や良し
もし、この映画を「下品だ」とか「低俗だ」とか評して楽しめないという人がいるなら、「可哀相に」としか私には言えない。

ただ、残念だったこともいくつかある。ひとつはビル・マーレーが出ていない点。代わりのバーニー・マック(義弟という設定)はアメリカでは大人気らしいコメディアンなのだが、笑いの質がビル・マーレーとは違いすぎる。ビル・マーレーはコメディアンとしての彼を知らなくても笑える演技が出来る役者だが、バーニー・マックはそこまで役者ではないなあ。

もうひとつはアクションシーン自体は増えたけど、格闘シーンが減ったこと。あの『マトリックス』以上にバカバカしい格闘シーンはもっと沢山見たかった。とはいえ、最初の脱出シーンのバカバカしさやモトクロスアクションだけでも堪能は出来るんだけどね。

あとひとつは「やせ男」の処理の仕方。えー、アレはないだろ。腐ってもエンジェル三人相手にまともに組みあった相手だぜ。アレはないよ、うん。

まあ、そんな不満はどっかにぶっ飛ばしておいて、とにかくその必要限界量を越えた過剰なまでのサービスを楽しむがヨロシ。主役三人のお色気はいうまでもなく、デミ・ムーアの超ミニビキニとか下着姿まで惜しむことなく堪能できるし、「まさかあの人が!」というカメオ出演はあるし、小ネタ大ネタ満載です。

ただひとつ、言ってはいけないことがある。それは、エンジェルがもっと好みの女優だったらなあということである。それだけは禁句。確かにキャメロンは前作より筋張ってるし、ドリューは太りすぎだけどプロデューサーだから仕方ないし、ルーシー・リューはどう頑張って見ても美人に見えないけど。だからまあ、彼女達が痛い目見ても笑ってすませられるという部分もあるしね。

今回のお気に入りシーンは、キャメロンがロデオで盛り上がってるけど周りが急激に冷めたシーンと、キャメロンがソファーを飛び越そうとしてコケるシーン。特に後者は普通のアクションシーンよりも多分難しくて、それだけによかったです。

涅槃の読書模様

『寝ながら学べる構造主義』内田樹【→bk1へ】読み中。

購入物。

『のだめカンタービレ -6-』二ノ宮知子(キスコミックス)【→bk1へ】[comic]

4年生の千秋はいよいよ卒業。本来ならば海外留学、ということになるはずだが、彼にはそれが出来ない。ゆえに大学院に進むことに。しかし、日本で指揮者として認められたとしてもそれがなんになるのか。そんなこんなで苦悩する千秋の周りで色々動きが。
一方のだめは「卒業したら幼稚園の先生になるんでぷ〜」とか言ってます。

相変わらずおもしれー。でも面白さの中にも少しずつ二人の将来への動きが出てきてそれがまたいい。峰の出番が少ないのが少々残念なのと、ミルヒが出てないとバカ度が足りない気がする(バカ度ばっかり高くてどうする)。
この先どうなるのか全然見えないけど楽しみなことに間違いないのだった。

『摩天楼 -3-』工藤かずや/廿里祥一郎(アクションコミックス)【→bk1へ】[comic]

スペツナズから義兄を取り戻し任務を終えたシグマ。しかし、第二師団の独立宣言を中止するため、大怪我の義兄は再び前線へ。彼を守るためにシグマは再び動き出した。

てなわけで北海道独立編は終わり。あっけないくらいに人がドンドン死んでいくのは「おいおい簡単に殺しすぎ」と思わないでもないですが、実際それくらい簡単に人は死んでるんだよな。それにしても日本のSATはここまでだらしないですか。スペツナズもやられすぎだが。

毎度毎度シグマは留衣のために「二度と仕事はしない」って言ってるんですが、日本政府は彼の良心に漬け込んで仕事をさせてしまう。この部分に関してはキッチリと話の中で処理されることはないと思うんですが、「人を救う力を持ちながら、それを忌まわしく思う」という人間像だけで話は作れるよなー。ま、このマンガはそういう話がメインではないんですが。

Jul.12,2003 (Sat)

daylife

流石に疲れて爆睡。しかも寝苦しい。

夜に起き出してきてJリーグ。ジェフ市原VSベガルタ仙台。ジェフ強すぎ。

リーガ・エスパニョーラで旋風を巻き起こしたレアル・ソシエダとジェフのチームコンセプトは殆ど同じだ。とにかく相手よりも走り回る。攻守の切り替えを早くする。一見単純に見えるこのコンセプトは、選手に実行させるという意味において実は意外に困難である。ジェフのオシム監督はそれを徹底した練習量により克服させようとし(この季節に試合のある日の午前中も練習してたそうだ)、ソシエダのドゥノエ監督はフィジカルの強化ということで克服した。

しかし、それだけの理由がこの2チームの快進撃を生んだわけではない。ソシエダはコバチェビッチとニハト、ジェフはチェ・ヨンスという、監督の思惑を超えた選手が存在したこともまた大きな要因だろう。
監督のコンセプトと決定力のある選手の融合。それがチームをここまで変えることが出来る、という好例だと思う。

実は今日のテレビ観戦、MXテレビでやっていたFC東京と我らが浦和レッズの試合とザッピングしながら見ていたのだが、ジェフの試合の方が遥かに面白くて結局はそっちばかり見ていた。コンセプトのないチームや監督というのはまずいないものだが、それを実践できている監督やチームというのが実は殆どない、ということに改めて気づかされた。
そう考えるとジーコのコンセプトというのは日本代表において実践されているということに驚きを感じる。問題は、結果が出ない、ということだけだが。

Jul.13,2003 (Sun)

daylife

なんなんだよK-1。フィリョとベルナルドはもはやリングに立つ資格なし。負けるのが恐いならさっさと引退しなさい。

浴衣オフ、本気でやりたくなってきた。問題は浴衣着てなにするの?(どこ行くの?)ってことと、私が浴衣を持ってないってことだな <ダメじゃん。

Jul.15,2003 (Tue)

daylife

↓の文章(ニュースじゃありません)書いてたら頭使いすぎで疲れてしまいました。頭使ったようには読めない内容と言われても困ります。
今は、これが精一杯 <ルパンかお前は。

罪と罰

ドストエフスキーとは関係ありません。
おそらくはまとまらないだろうが、思い浮かんだことを書いてみる。

長崎の児童殺害事件に関連して、先日どこかの大臣が「親は市中引き回しの上、打ち首に」という発言をした。このことの是非はまた別に問うとして、この「市中引き回しの上、打ち首」というのは、罪に対する罰として提案されたものである。

現在の日本において、「罰」の種類はおおまかに分けて三種類ということになるのだろうか(詳しく調べてないので無責任な発言ではある)。つまり、罰金、懲役、死刑である。その中でも刑事事件の罰については、罰金ということはまず有り得ないし、死刑に関しても判決後、即ということは有り得ず、日本における「罰」の概念は基本的に「懲役」と考えることができる。そして、罪の重さは懲役期間の長さとして換算される。

この「懲役」という罰は果たして、本当に罰たりえているのか?。確かに世間と隔絶され、自由度という点ではかなり窮屈な生活ではあるにしろ、衣食住の心配はないし、病気になれば医者にもみてもらえる。少ないながらも稼ぎはある。
また『塀の中の凝りない面々』安部譲二『刑務所の中』花輪和一を読んだり見たりする限り、刑務所の中での生活は悪いことばかりではないような気もする。だからといって入ってみたいとは思わないが。
その逆に『アルカトラズからの脱出』『刑務所の中のリタ・ヘイワース』を挙げるまでもなく、刑務所の恐ろしさも我々は同時に知っている。それが、どこまで事実かはわからないけれど。
しかし、ある種の偏屈屋やひきこもりに近い人間にとっては、もしかしたら住みやすい空間でないと誰が言えるだろう。

以前、『タモリ倶楽部』で「江戸時代の刑罰」を面白おかしく紹介しているときがあった。江戸時代の刑罰というのは多種多様で、罪ごとに罰が異なるのだ。罪人を殴るという罰ひとつとっても、殴り方、回数、人前に晒すかどうかなど様々である。死刑に値するものだけでも火あぶり、斬首、晒し(土中に埋めて死ぬまで晒す)など、「よくぞそれだけ考えたな」というほどであった。

これはおそらく日本だけではなく、世界で共通していることだと思うが、国家が近代化するに従い刑罰の種類は減っていった。そして、その歴史から読み取れる事実は「犯罪者にも人権がある」ということを重く見るようになってきたということである。
そして、その結果、近代国家は「罰」として「懲役」というものを選択するようになった。これは世界に共通するが、自然発生的なものというよりも先行的に始めた国に追従した、ということなのだろう。歴史の流れの中でなぜ「懲役」という罰が選択され、それを横並びで採用したのかは、私にはわからない。詳しく調べてみようと思えばわかるのかもしれないが。

ただ、私が思うのは、国家や社会が変遷し、それに従って刑罰が変容してきたのなら、これから先、それがもしかしたら「今」なのかもしれない、国家や社会が変容するに併せて、刑罰の姿が変容することもあるのではないか、もしくは変容させなくてはならないのではないか、ということである。
そう考えた時、「懲役」という罰は、今の時代に、全ての罪人を対象とすることに対して則しているのか、ということを疑問を持ったのである。

やっぱりうまく言えてない。いつものことだから仕方がないけど。
本当は、犯罪抑制としての罰なのか、因果応報としての罰なのか、とか色々言及したいこともあったのだけれど、とてもじゃないけどまとめきれないので諦めました。

私は決して、現在の法律や刑罰は「犯罪者に優しすぎる」とか、「懲役という刑罰は軽すぎる」ということを言いたいのではありません。社会が大きく変わり、そこで起きる犯罪の質も変わり、そして犯罪者自身が変容してきたと考えられる今の時代、つまり「罪」が変容したことに対し、「罰」は変容することなくていいのか、ということを考えてしまうのです。

まとまらんなあ…。書きたいことの半分も書けてない。

涅槃の読書模様

『寝ながら学べる構造主義』内田樹【→bk1へ】読了。

『読むだけで絶対にやめられる禁煙セラピー』アレン・カー【→bk1へ】読み中。

購入物。

Jul.17,2003 (Thu)

daylife

浴衣どうしよう…。

涅槃の読書模様

『寝ながら学べる構造主義』内田樹【→bk1へ】読了。
『読むだけで絶対にやめられる禁煙セラピー』アレン・カー【→bk1へ】読了。
『MISSING』本多孝好読了。

『リセット』北村薫【→bk1へ】読み中。

購入物。

『寝ながら学べる構造主義』内田樹(文春新書)【→bk1へ】

ネットの巡回先で複数レビューを見つけ、評判が良かったので読んでみました。

基本的に私という人間は、遊園地に入ったら入り口にあるアトラクションの地図を全部眺め、パンフレットを捲ってそれらのアトラクションがどういうものかを知ってしまったらある程度満足してしまうようなタイプなので、こういった入門書はありがたいと同時に、「理解したような」気になってしまうのが注意すべき点ではある。それはそれとして。

ソシュール、フーコー、ロラン・バルト、レヴィ・ストロース。懐かしい名前だ。エクリチュール、シニフィアン、シニフィエ、音韻論。これら全て、実は10年ほど前の学生時代に一度は通り過ぎた道だったのです。しかし、その当時はまったくといっていいほど理解してませんでした。

まあ、実際は私に学ぶ気がなかったからなんですが、同時に大学側にも教える気は殆ど見受けられなかったわけで、あの当時この本があったら少なくとも自分で入り口には立てたよなあ、と述懐してしまう。大学の愚痴を語りだしたらキリがないのでこの辺で切っとこう。

とにかくマルクス、フロイト、ニーチェという布石を経て、前述したソシュール、フーコー、バルト、ストロース、そしてラカンへと繋がる「構造主義」者たちの言わんとすること、証明しようとすることは、なんとなくわかったような気がします。なんとなく、ですけど。
あ、いやラカンの部分は未だによくわからないな。どこまでがフロイトで、どこからがラカンかの区別も。それはそれで別の機会に持ち越しということだ。

これまで聞きかじったことのある言葉、定義、そしてハッキリとした形にはならないけれども自分でおぼろげに考えていたことが、「ああ、こういうことだったのか」と理路整然と形作られていくのはやはり気持ちがよく、久々に「学ぶ」ということを楽しめた気がします。

本来ならば、これを足がかりにより深い知識へと進んでいくのが本道なのでしょうが、そこまで進むつもりがないのは私の性であって、この本には充分その先へと誘うだけの魅力はあったと思います。
実際、学生時代一度は卒論の題材にしようかと思ったレヴィ・ストロースについては、もっと深く知りたいかも、という気分にさせられましたし。まあ、自分の大っ嫌いだった教授というのが、ストロースの著書を訳した張本人だったのであっさりやめたんですが <おい。

実際にこれ以上のことを学ぶと学ばざるに関わらず、こうして知識として得た以上は、今迄とは違うものの見方をすることが可能になったわけで、そうやって世界が広がっていくのは面白いですね。やっぱり学ぶことを止めてはイカンな。

この構造主義に変わる新たな思想がどうやって生み出されてくるのかということに、今はとても興味があります。

『コータローまかりとおる!L -6-』蛭田達也(少年マガジンKC)【→bk1へ】

前の巻を読んだときは「ヤバイよなあ…」と正直思ってしまい、その予感どおり連載が止まりがちだったりしたんですが、この巻ではやや復調、したようにも見えます。それもこれも如月の人身御供のおかげなんですが。ヒロミちゃんファンは作者を殺したくなるかもしれません。この咬ませ犬扱いはもう終わりにしてやってくれ…。

一番の懸念材料だったNASAの特殊素材は忘れられたかのように出てこず、それどころかコータロー始まって以来の名勝負が、この後待ちうけてるかもしれないので、それなりに楽しみなんですが不安は拭いきれないなあ。

『海皇紀 -18-』川原正敏(少年マガジンKC)【→bk1へ】

いよいよ海王を決める三番勝負の三本目が始まった。相変わらず姑息な手段でファンを罠にかけようとするエギアとフェルカドだったが、仕掛けたはずの罠が逆効果。騙し合いでファンに勝てるものはいないのだった。

「ちょっと超人すぎねえ?」という感じが。なにをやってもズバズバ当たるってのは、しかもそれが人心操作レベルになっちゃうと読むほうとしては引き気味になってしまいます。

とにかくさっさとこの王海走を終えて新章に入っちまえってことだ。格闘メインの話で。お願い。

Jul.18,2003 (Fri)

daylife

またまたどえりゃあ恥を晒していたので、こそっと修正。ご指摘ありがとうございました。ホンマ恥ずかしいわあ。

浴衣を見てきた。値段はまあ覚悟はしていたので「まあ、こんなもんか」と思った程度だが、普段まったくといっていいほど意識していないものなので、柄とかどういうものがいいのか見当すらつかない。渋めがいいけどなあ。
しかし、ここでも困るのが下駄。私の足のサイズでまともに履ける下駄は存在するのだろうか。まあ、足を突っかけるだけだから歩けることは歩けるんだけどね。自分でも笑っちゃうくらいに下駄がデカく見えるんだな、これが。下駄にするか雪駄にするかでも迷いますな。

なんか思い詰めすぎて頭が疲れた。ガス抜きしないとおかしくなりそうだ。その勇気はないけど。

涅槃の読書模様

『リセット』北村薫【→bk1へ】読み中。

『MISSING』本多孝好(双葉社)

『このミス』で2000年の第10位となった本田孝好のデビュー作。

【眠りの海】
崖から海へと飛び降り、失ったはずの命。目が覚めたとき、目の前にいたのは一人の少年。彼は、海に漂う私を助けてくれた。どこかで見たことのある面影に向かって、私は語り始めた。
【祈灯】
幼い頃に妹を失ったショックから、自らを妹だと思い込み生きている「幽霊ちゃん」。彼女の心の奥底に隠されているものはいったいどんな真実なのか。
【蝉の証】
老人ホームに入っている祖母に、同じ老人ホームに住む相川さんの孫について調査を依頼された僕。しかし、調査は予想だにしない方向へ。
【瑠璃】
瑠璃色の瞳を持つ従姉妹のルコは、親戚の中でも変わり者扱いされている。だけど、そんなルコが小学生の僕は好きだった。今でも僕はルコと過ごした夏を忘れることができない。
【彼の棲む場所】
品行方正で優しい人柄が大衆に受け、今やテレビの有名人となった友人。何年振りかに会った彼は、私にこう質問した。「サトウを憶えているか?」と。

昔、同人誌を読んだとき、似たような感じを憶えたことがある。
この作品が同人誌レベルだというのではない(いや、ある意味ではそうなのだが否定的な意味ではない)。「これを自分と同じ年の人間が書いたのか」という驚きと無力感のようなものだ。たまらないな。

同人誌“臭”は文面から匂い立つナルシズムからも感じることができる。自分の感性を、熟成し、言葉を選ぶのではなく、そのまま剥き出しに近い形で文章にしている。瑞々しさのような「若さ」が目に痛いほどだ。
主人公の斜に構えた性格や、レトリックは初期の村上春樹を思い起こさせる。かといって真似で終わっているわけでもない。むしろ、こちらの方がしっくりくる部分さえある。

と、同時に少女マンガ“臭”もプンプンとする。【祈灯】や【瑠璃】などは、まんま少女マンガの短編(吉田秋生とか)で書かれていても違和感のない話だし、読んでみたい気がする。

重ねて言うが、同人誌“臭”もナルシズムも、少女マンガ“臭”も、その他の上手い表現が(私の貧困な語彙からは)見つからないだけで、否定的な意味ではない。むしろ、こういった若く、けれども荒削りというのとは違う文章を書くことができるというのは凄いことだと思う。この作品が出たとき、作者は28、9歳。その歳でも感性を失わず、しかもそれをまっすぐにぶつけられるというのは、難しいことだ。それがとても眩しい。

作者がこの先どこまで、この「眩しさ」を保っていけるのか、非常に楽しみである。

『D-LIVE! -3-』皆川亮二(少年サンデーコミックス)【→bk1へ】[comic]

快調快調っとくらあ。ホントに面白いです。

今回は、建機、潜水艇、スバル(&鉄道)という乗り物を駆使するわけですが、やはり七月鏡一シナリオの潜水艇編が一番興奮した。ラストシーンはグッとしたよ。

このマンガ、テレビシリーズとかになったらいいのになあ。

『吼えろペン -8-』島本和彦(サンデーGXコミックス)【→bk1へ】[comic]

前巻はヒーローばかりが目立ってましたが、その反動かヒーローの出番はほとんどなし。燃が大活躍というよりは、燃VS他のマンガ家の戦い編という感じ。

遂に同業者が半実名で登場してネタになってます。誰であるかは読者にはバレバレです。いいのか。笑えすぎ。他のマンガ家も出してくれ。

最初の萌の話は「どこまでがフィクション?」と思わず考えてしまった。

Jul.20,2003 (Sun)

daylife

劇団フーダニットの公演、若竹七海脚本の『死がいちばんの贈り物』を見てきました。感想は…書くのか?。

その後、5時過ぎから飲みに入って、まだ夜も更け切らぬうちに店を出てカラオケボックスへ。3時間半歌って帰ってきました。明日も歌うのか?(ほぼ同じメンツで)。

帰りの電車では横浜の花火大会の影響で浴衣姿の女子がいっぱい。しかし、浴衣姿の男子はなし。うーむ、参考にならん。

涅槃の読書模様

『リセット』北村薫【→bk1へ】読了。

『はなれわざ』クリスチアナ・ブランド【→bk1へ】読み中。


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